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フリードリヒが魔法塔での報告書類に目を落としていると、執政官が書架の影からふと顔を出し、どこか愉しげに口元を緩めた。
「まるで手のかかる弟のように渡り人様の手を引く公爵様が、微笑ましいのだと皆噂しておりますよ」
軽やかな声音だった。深い意味も悪意もない、ただ耳にした話を披露するだけの、ありふれた雑談だ。
ノクスが誰彼構わず手を引かれると、そのままついて行ってしまうという奇妙な性質は、まだ魔法塔の外には出ていない。知っている者は限られている。執政官もまた、ただ断片的な印象だけを拾ってきたに過ぎないのだろう。
「そうか」
フリードリヒは顔を上げることもなく答えた。羽ペンの先が紙を滑る音だけが、静かな室内に続く。関心がないという態度を、これ以上なく端的に示していた。
だがその胸の奥で、何かがわずかに軋んだ。
「最近、城でスヴァルトハイム公爵をお見かけしないのは、そのせいかもしれませんね」
続けられた言葉に、フリードリヒの手が一瞬だけ止まる。ほんのわずかな停滞。だがすぐに何事もなかったかのように書き進める。
人の口から聞かされるには、あまりにも不快な話だった。
リーリエは――以前は雛鳥のように自分の後ろをついて来ていたのに。
視線を落としたまま、思考だけが過去へと遡る。自分の言葉一つで揺れ動いていた少女の姿が、やけに鮮明に蘇った。
笑って、落ち込んで、また期待して。
ほんの少し興味を向けるだけで、救われたような顔をしていた。青い瞳を細めて、まるでそれだけで満たされたかのように。
銀の髪が光を弾き、柔らかく揺れていた。
(……そろそろ顔も忘れてしまいそうだぞ、リリ)
無意識に浮かんだ呼び方に、フリードリヒ自身が気づくことはない。
毎日のように城に顔を出していた彼女が、今では餐会にすら姿を見せない日がある。理由は単純だった。ノクスの傍にいるからだ。
「目が離せないの」
招待状を送れば、すぐに参加の返事が届く。しかしいざ会ってみると、返ってくるのはそんな言葉だった。
まるで赤子の世話でもしているかのような口ぶりで、挨拶を済ませるといつの間にか帰ってしまう
。
――目が離せない?
その言葉が、胸のどこかに引っかかっていた。
それならばと、フリードリヒはある日、気まぐれに魔法塔へ足を運んだ。誰に告げるでもなく、ただふらりと。
塔の上層。人気の少ない回廊を進み、窓辺へと視線を向ける。
そこに、二つの影があった。
銀と黒。
並ぶ髪が、光の中で淡く揺れている。
思っていたよりも、近い。
フリードリヒは無言のまま立ち止まり、その距離を測るように見つめた。鋭い瞳が、僅かな変化も見逃さないようにと細められる。
そのときだった。
銀の髪が、わずかに動いた。
黒へと、寄る。
「え」
声が漏れたのは、ほとんど反射だった。
黒髪の男が、はっとしたように窓の外へ顔を向ける。耳まで赤い。隠しきれない動揺が、あからさまに滲んでいる。
一方、銀の髪の少女は俯いたままだ。表情は見えない。ただ、男の胸元に手を伸ばし、何度も何度もそこをさすっている。
慰めるように。
宥めるように。
あるいは――親しげに。
「……」
フリードリヒは何も言わなかった。
だが、思考は静かに歪む。
手のかかる弟?
目が離せない?
そのどちらにも、今目の前にある光景は妙にそぐわなかった。
首を傾げる。
それは彼が無意識に見せる癖だった。苛立ちや違和感を覚えたときにだけ現れる、ごくわずかな動き。
興が削がれた。
それだけだった。
リーリエに声をかけることもなく、フリードリヒは踵を返す。足音は静かで、迷いもない。
そのまま城へ戻った。
帰りの馬車の中、揺れに身を任せながらも、視線はどこにも定まらない。
脳裏に浮かぶのは、先ほどの光景だった。
並ぶ影。
近すぎる距離。
触れる指先。
(……あの男、邪魔だな)
思考は、驚くほど自然に形を成した。
否定も逡巡もなく、ただ静かに落ちてくる。
その瞬間、胸の奥で何かが確かに変わった。
熱を帯びた石のようなものが、内側に沈む。
じわじわと、焼けるように存在を主張し始める。
それが何であるのかを、フリードリヒは顧みなかった。
ただ、確実にそれはそこにあった。
消える気配もなく。
静かに、だが確実に。




