『薔薇の家』のリリー
この当時のパリの人口は十五万人。その中で娼婦の数は六、七千人にものぼったらしい。人妻に手を出すほど好色なフランス国王・フランソワ一世は、
「我が宮殿の貴族ならば、高級娼婦の一人ぐらい口説くべきだ」
と言い、市民たちも王や貴族が高級娼婦と恋愛をするのを真似て、下級の娼婦のもとへ通いつめる時代だった。
当然、学生の街であるカルチェ・ラタンにも、若者狙いの売春宿があった。遊び人のガノレスは複数の売春宿を知っていて、酒場で葡萄酒をひっかけた後、
「今日は、サン・ジェルマン・デ・プレ教会の近くにある売春宿に行こう」
と言った。
サン・ジェルマン・デ・プレ教会は、六世紀に建てられた歴史ある教会で、ファンもパリに来た初日に見学しているので知っている。
「たしか、あそこに行くにはブーシ門を通らないといけなかったような。夜間は閉まっていて通行できないのでは?」
ファンがそう言うと、ガノレスは笑って(いるようには見えない厳めしい顔だが)答えた。
「門番に小遣いを渡してやれば、通してくれる。覚えておきなさい」
ガノレスが言った通り、ブーシ門の門番は、金をガノレスから受け取ると、ファンたちを通してくれた。
サン・ジェルマン大通りをしばらく歩き、サン・ジェルマン・デ・プレ教会にたどり着く少し前の小路に入ると、お目当ての売春宿はそこにあった。看板には『薔薇の家』と書かれている。ここの売春宿の屋号らしい。
「いらっしゃい。おや、ガノレスさん。久しぶりね。ペストにやられたのかと思って、心配していたのよ」
「十日ほど来なかっただけで、その言い草はひどいんじゃないのか、エリザ。こうやって新入生を新規客として連れて来てやったのに」
「あらあら、それは失礼。うふふ」
ガノレスが先頭になって屋内に入ると、愛想のいい中年の女性が出迎えてくれた。このエリザという女が店の主人なのだろうか。彼女は若い娼婦たちにテキパキと指示をあたえ、ファンたちの相手をする娼婦を決めていった。初めて売春宿に来る若者たちでは、どんな女がいいかなど、緊張のあまり自分で決められないことも多いので、エリザはこうやって相手役を決めてやっているのである。
「アナはこの太っちょさんをお相手しなさい。カーラは気の弱そうな彼。そして、背が高くてなかなか男前のこの人は……。リリー、あんた、どうだい?」
エドモンはアナという少し大柄な娼婦、ダミアンはそれほど美しくはないが優しそうなカーラという娼婦が相手に決まった。体格がしっかりしたアナならば、肥満体のエドモンが体の上に乗っかっても大丈夫だろうし、面倒見のいいカーラならばビクビクしているダミアンを丁寧に手ほどきしてくれるはずだ。そんなふうに、エリザは一瞬で客との相性を見極めているのであった。
ファンの相手に選ばれたのは、リリーという娼婦だった。
「いいですよ。体調も治りましたから」
さっきまで眠っていたのか、リリーは気だるそうに言い、ファンを見つめた。ニコリと微笑んではいるが、少し顔が青ざめていて、体調が治ったと言いつつもどこか無理をしているような様子である。
(美しい人だな)
ただし、この世のものとは思えないほど幻想的でそばにいたら落ち着かないといった類の極上の美人ではなく、こんな女が一つ屋根の下にいてくれたら幸せだろうと男に妄想を抱かせるような、所帯じみた素朴な美しさだった。売春宿になどいなかったら、娼婦とはとても思えない清楚な雰囲気をリリーは持っている。
「こんにちは。お名前は?」
目と目が合い、ファンはプイと顔をそらした。
リリーが溢れんばかりの色気の娼婦ではなくても、美人と向き合うのは恥ずかしい。もうここらへんで逃げ出そうかと考え、ナタンに目配せしようとしたが、葡萄酒を一杯飲んだだけでべろんべろんになってしまったナタンは、売春宿の入口でぶっ倒れていびきをかいていた。
(逃げる手助けをしてくれるんじゃなかったのか)
あれだけ胸を張って言っておいて、主人がいざ危機一髪という時に酔いつぶれていたら、何の役にも立たない。明日、小一時間は説教してやろう。
そうしている間にも、エドモンはアナの部屋へ、ダミアンもカーラの部屋へ引っ張られて行き、ガノレスとランベールも自分の相手を選んでさっさと消えてしまった。
「お客さん、聞こえてる? おーい。お・な・ま・え・は? ……まあ、いいや。部屋に入ってから、ゆっくりお話しましょう」
ずっとだんまりを続けているファンの手を取り、リリーは二階の部屋へと誘う。リリーの手はとても冷たいのに、彼女と手をつないでいるファンの右手は火傷しそうに熱く、その熱は腕から胸へ、そして、顔へと伝わった。鏡を見たら、いまの自分はゆでだこになったように赤面しているだろうとファンは感じた。
(に、逃げられない……)
逃げよう逃げようと思っているのに身体がその行動を取らないのは、思わぬところでファンの男としての意地が邪魔をしているからだった。
(売春宿まで来て、逃げるなんて男としてどうなんだ?)
金を払って女を抱くなど、愛のない男女の営みだけは絶対にしたくないというのがファンの信念だ。だが、自分という人間はかなりの負けず嫌いで、喧嘩の相手であろうが女であろうが「逃走」することに強い抵抗感を抱く。そのことを忘れていたのだ。逃げたくても、ファン自身がそれを許さない。
(困った。自分の余計な意地に困った……)
もう自分でもどうしたらいいのか分からず、ファンはリリーの非力なか細い腕にズルズルと引きずられて行くのであった。
* * *
娼婦といえば、あからさまに胸をはだけさせて扇情的な服装をしているものだとファンは思っていたが、リリーの服装は、長めの襟、だぼっとした袖の白いシュミーズにゆったりとしたガウンを着重ねした大人しめのかっこうだった。
「寒い」
部屋に入る前、リリーはぶるっと身を震わせて呟いた。
秋とはいえ、屋内はまだそれほど気温は低くない。彼女は体が弱いのかも知れない。とりあえず、扇情的なかっこうなどやっていられないほど寒がりだということは察しがついた。あまり色気がない娼婦である。
「どうぞ、入って」
部屋に通されたファンは、リリーが用意してくれた椅子に座ったが、いまからすることを考えると落ち着かなかった。
……このまま逃げないと、本当に行くところまで行ってしまう。しかし、部屋にまで招き入れた客に逃げられたら、リリーは激怒するかも知れない。いったいどうすればよいのだろうかとファンは焦った。
「お客さん、具合悪いの? さっきからずっと黙りこんでうつむいているけれど」
革の靴を脱いだリリーは、ベッドに座り、雪原を連想させるほど色白い裸足をぶらぶらさせながらファンに言った。
その童女のような子どもっぽい仕草を見て、彼女は自分とそれほど年齢が離れていないのではないかとファンは思った。顔を上げてリリーをよく観察すると、もう子どもではないが、最近まで少女であったと感じさせるようなあどけなさが彼女の面影にはあった。
「……あなたは、いくつですか?」
「ずっと黙っていて、ようやく口を開いたと思ったら、女性の年齢を聞くなんて失礼なお客さんね」
「ご、ごめん……」
これは失言だった。怒らせてしまっただろうか。そう思って慌てたファンだが、リリーは言葉とは裏腹に愉快そうに笑った。
「面白い人。あなた、ここに何をしに来たの?」
「何をしに……。女を買いに、かな」
ファンが見栄を張ってそう答えると、リリーは、今度は腹を抱えて笑った。
「とてもそのようには見えないけれど」
「ば、売春宿に来るということは、そういうことだろう?」
「それにしても、あなたの目は、今から女を抱こうとする男の目じゃないわ。ぜんぜんギラギラしていないんだもの」
「ギラギラ?」
「そう。売春宿に来る男の人は、みんなギラギラと野獣みたいな目つきをしているわ。だって、私たち娼婦と本当に獣のような行為をするためにここへ来ているのだから。でも、あなたはとても子どもっぽい目をしている。心の中にひとかけらの欲望も持っていないような澄んだ瞳だもの」
「心に何の欲望もないなんて、聖人じゃあるまいし。俺はそんな立派な男じゃないよ」
「別に立派な人とは言ってないわ。愛らしい人。そう言いたいの。男って、どいつもこいつもいやらしい生き物ばかりだと思っていたからさ」
「……俺は、男女のそういったふしだらな行為自体に抵抗があるんだ。特に、お金を払って女を抱くなんて……。本来、男と女が交わるのは子どもをつくるための行為じゃないか。神からの授かりものである赤ん坊を男女の愛をもって生み出すためのものだ。……でも、世の中には、愛なくして生を受けた子どもがいる。それもこれも、親となる人間が……っ!」
「待って、待って。あんまり大声を上げたらダメよ。一階のエリザ母さんが、喧嘩だと勘違いして様子を見に来ちゃう」
ファンが突然興奮してまくし立て始めたので、リリーはそう言ってファンをなだめた。そして、ファンの膝の上に座り、その小さな背中をファンの引き締まった胸にあずけた。
「父親と母親の間に愛がなくて生まれた子どもを知っているのね? それって、あなたのこと? 別の誰か?」
リリーは自分の右頬をファンの左頬にすり合わせ、幼い子をあやすようにファンのくせっ毛を撫でた。彼女の柔らかい栗毛がファンの鼻をくすぐる。
不思議なことに、これだけ密着しているというのに劣情がわいてこない。逆に、ファンの高ぶっていた気持ちが落ち着いていく。
「……人捜しをしている。俺の姉は、母が一夜の過ちで身ごもった不義の子なんだ。彼女は生まれてすぐに捨てられたが、十九年経った現在、パリのどこかで生きているらしい」
「そうなんだ……。あなたのお姉さん、私と同い年なのね」
「え?」
リリーはファンの膝からふわりと降り、向き直ってこう言った。
「あなたが、お金を払って女を抱くことを躊躇する理由は分かったわ。愛のない男女の交わりが嫌だなんて、あなた、純潔の乙女みたいね。可愛い子。でもさ、結婚している男女がみんな愛し合っているわけではないように、心から恋をして男に尽くす娼婦もいるんだよ。私たちは、聖職者たちが言うような汚らわしい存在じゃない。それだけは頭のどこかで覚えておいてね」
「……うん。たしかに、その通りだ。結婚しているからって、愛があるとは限らない。それに、娼婦の中にも、リリーさんみたいな母性にあふれた人がいる」
「母性? 私が?」
ファンに言われたことがよほど意外だったのか、リリーは目を丸くして言った。
「さっき、あなたに撫でられて心がとても安らいだんだ。母親にあやされる子どもの気持ちはああいう感じなのかも知れない。あんな優しい気持ち、初めて味わった」
「あれは誘惑したつもりだったんだけれど……」
私ってそれほど色気がないのかしらと内心思いつつ、リリーは口を尖らせた。
「まあ、いいわ。あなたにその気がないのはよく分かったから、もう寝ましょう。添い寝ぐらいしてあげる。夜明け前になったら、学院の授業に間に合うように私が起こすから」
「いや、悪いけれど、これから行きたい場所があるんだ」
「何よ、泊まってもいかない気なの?」
さすがに不機嫌になったリリーが頬を膨らませると、ファンは「ごめん」と謝った。
「姉が幼少時にいたらしいサン・テスプリ施療院に行ってみたいんだよ。何か手がかりがあるかも知れない」
「…………」
「どうかしたの?」
「え、いや、何でも。……こんな夜更けに行っても、誰も対応してくれないわよ。第一、そのガスコーニュ訛りだと、パリに来たばかりなんでしょ? 夜の街を一人で歩いたら、迷子になるんじゃないの? 昼間に行きなさいな」
「でも、うちの学院は基本的に外出禁止だから、昼間は自由な行動が取れないんだ。一か八か、行ってみるよ」
「もぉ、頑固な子ね。勝手にしたら?」
完全にむくれてしまったリリーは、仰向けにベッドへ倒れこみ、右腕を挙げて「しっ、しっ」と手を払った。さっさと行っちゃえという意味のようだ。
「恥をかかせるような真似をして、本当に悪いと思っている。椅子にお金を置いておくから……」
「いらない。あのねぇ、いくら何でも、なーんもしてあげていないお客から金は取れないわよ。その気になったら、また来てちょうだい」
その気というのはリリーを抱く気になったらということだろう。リリーのことは気に入ったが、彼女をお金で抱くのは何だか嫌だなとファンは思うのであった。
「それじゃ……」
「あっ、ちょっと」
「何?」
「名前をまだ聞いてない。それぐらい教えていってよ」
「俺の名は……ファン。ファン・ビュリダンだ」
「ファン。また来てね」
二度も「また来い」とリリーは言ったが、俺のような朴念仁のどこが気に入ったのだろうか。そう考えて首をひねりながら、ファンは『薔薇の家』を後にした。




