表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
カルチェ・ラタンの魔女  作者: 青星明良
一章 学生の街
7/41

獅子王

 午後の授業終了後、食堂で夕食を食べ、日課である礼拝堂での夜の儀式が終わると、ファンとエドモン、ダミアンは、いったん自分たちの部屋に戻り、学生服であるスータンを脱いで町人の服装に着替えた。


「これなら、学生だとは思われないだろう」


 帽子をかぶりながらファンが言うと、主人のことが心配で様子を見に来たナタンが、


「ファン様。いちおう、護身のために剣を持って行ってください。夜の街はどんなごろつきがいるか分かりませんから」


 と、ファンに剣を差し出した。たしかに、用心に越したことはないと思ったファンは素直にそれを受け取り、腰に帯びた。


「それじゃあ、行こうか」


「あ、ファン様。やはり、私もお供します」


「心配性だな。大丈夫だって」


「いいえ。私はあなたの従者なのですから、天国だろうが地獄だろうが、お供させていただきます」


「天国にも地獄にも行かない。売春宿だ」


 ファンがそう言うと、ナタンは主人の耳に口を寄せて、


「本当は、女を抱く気なんてないのでしょう?」


 そう囁いた。ファンは、「うぐっ」と唸る。


 さすがに、ナタンは主人のことをよく分かっていた。

 ガノレスの夜遊びに付き合うのは、あくまでも姉捜しのために学院の外へ出る口実であって、ファンが女を抱くはずがない。そういう行為に強い抵抗があるのだ。相手が絶世の美女でも、ファンは拒絶するだろう。


「いざそういうことになった時、ファン様がお困りにならないよう、私が手助けしますから」


「どういう手助けだ」


「誘惑をしてくる娼婦から、ファン様が逃げる手助けです。自分一人で逃げられますか?」


「……わ、分かった。好きにしろ」


 ファンは頭をがりがりかきながら言った。ファン主従が何を話しているのか見当もつかないダミアンとエドモンは顔を見合わせ、首を傾げるのであった。


「支度はできたか?」


 忍び足でガノレスが部屋に入って来た。エドモンが「あ、助教授」と大きな声を出しかけると、ガノレスは「しっ」と指を口にあてて言った。すでに消灯時間の九時を過ぎていて学院内は静まり返っており、ほんのちょっとでも音を立てたり、声を上げたりしたら、三階中に響いてしまうのだ。


「はい。いつでも行けます」


 ファンが小声で言葉短く返事をすると、ガノレスは無言で手招きをした。僕について来いという指示らしい。


 ファン、ダミアン、エドモン、ナタンはガノレスの後に続いて、真っ暗な廊下を歩いて行く。体重が重いエドモンが歩くたび、ぎし、ぎしという音を立てるため、ガノレスに何度も注意された。


(表の玄関には守衛がいるはずだが、どこから出て行くのだろう?)


 一階に降りると、ガノレスはファンたちを食堂に導いた。エドモンは食堂に入るなり、ぎゅっと鼻をつまんで恐い顔をしている。「何をやっているんだ」とファンが小声でたずねると、エドモンは鼻づまりの声でささやいた。


「食堂は食い物の匂いがプンプンしているからな。美味そうな匂いを嗅いだら、お腹が鳴っちまうだろ?」


 ガノレスに静かにしろと十回近く叱られていたエドモンは、彼なりに気をつけているらしい。ファンは


(馬鹿だけれど、憎めない奴だ)


 と、エドモンに対して親しみを抱くのであった。


「ここから抜け出す。最後に出る人間は扉を静かに閉めるんだ」


(なるほど。いつも食堂の勝手口から出入りしていたのか)


 ファンたちはようやく学院の裏庭に出た。今夜は月がないが、念のために身をかがめ、足音を忍ばせて脱出口へと向かう。


「やあ、ファン君じゃないか。久しぶり」


「あれ。ランベールさん」


 学院に来た初日に世話になった先輩のランベールが、石塀にもたれかかってあくびをしていたが、ファンたちが来たのに気がついて手を振った。どうやら、ランベールもガノレスの夜遊び仲間らしい。


「ファビオさんは、一緒ではないんですか」


「あいつは梅毒ばいどくかかるのを恐がっているから来ないよ。何でもかんでも神経質なんだ、ファビオの奴は」


「ば、梅毒……」


 ファン、ダミアン、エドモンは、ぞっとした表情で声をそろえて呟いた。


 娼婦は不特定多数の男と性交渉を持つため、病気をもらいやすい。特に恐れられていたのは梅毒だ。そして、梅毒に罹った娼婦を抱いてしまったら、ファンたちも感染してしまうだろう。男が女にうつし、女が男にうつす。性病の恐ろしい悪循環だった。


「心配する必要はないさ。そんなものに罹るのはよほど運が悪い人間だ。僕は何年も売春宿に通いつめているが、この通りピンピンしているんだぜ」


 ガノレスが、歴戦の勇者が数多の武勇伝を披露するかのごとく、勝ち誇って言った。能天気すぎるとダミアンは眉をひそめ、エドモンは病気になって食欲がなくなったらどうしようと心配していた。


(……まあ、どっちみち、俺は女を抱かないんだ。梅毒なんて関係ない)


 ファンはそう自分に言いきかせ、余計なことは考えないでおこうと思った。そして、


「この塀はどうやって乗り越えるのですか? けっこうな高さですが」


 と、ランベールに聞いた。


「簡単さ。石と石のすき間を足場にして、よじ登っていくんだ。俺と助教授が見張っていてやるから、君たち、先に塀を越えなよ」


「分かりました」


 木登りなど高いところに登るのが幼い頃から得意だったファンは、ほとんど躊躇なく石塀に飛びつき、えい、えい、とかけ声をかけながら登っていった。なるほど、思っていたよりも簡単である。


「ダミアン、エドモン。大丈夫か?」


 ファンが下を見ると、ダミアンとエドモンも後に続いていた。いつも読書ばかりしているダミアンだが、意外にも運動神経は悪くないらしく、「問題ありません」と答える声は全く息が乱れていない。


「お、俺も問題ないぜ」


 そう弱々しく言っているエドモンは、ナタンに大きな尻を押してもらって、ようやく三分の一くらい登っていた。


 塀の上にたどり着いたファンは、


(これくらいの高さ、俺なら飛び降りても大丈夫かな)


 もしかしたら足を挫くかもと一瞬考えたが、この数日間、学院の建物から一歩も出ず、鬱憤がたまっていたことも手伝って、ちょっと無理がしてみたいという欲求にかられた。


「飛び降りてしまえ」


 ファンは、羽ばたくようにして両腕を広げ、落下に身を任せた。だが、下へと落ちていく途中、


(あっ。下に何かがある。モンテーギュ学院の学生が捨てた汚物とかではない。生き物だ。人間ではなく、動物がいる!)


 塀の下に何があるのか、この暗闇では普通の人間の眼にはとらえることができない。しかし、ファンは空中で下を見た瞬間に、闇の中のそれを目ではっきりと確認していた。(しまった)と空中で慌てたが、どれだけ慌てたとしても、背中に羽がないファンは、このまま落下するしかなかった。


 ブヒィ!


「ぶ、豚を踏んづけちまった!」


 豚を踏んだ後、尻餅を打って倒れたファンは、尻をさすりながら周囲を見回した。すると、怪物かと驚くほど巨大な豚がヴァレット通りの方角へと走り去って行くのが見えた。


「でけぇ……」


 ダミアン、エドモン、ナタンが塀をつたって降り、見張りをしていたガノレスとランベールも塀を越えると、ファンは大きな豚を踏んづけたことをみんなに話した。すると、ランベールが「ああ。そいつはきっと獅子王だな」と教えてくれた


「し、獅子王? 豚にしては大げさな名前ですね」


「俺たちが勝手にそう呼んでいるんだよ。どこの家が放し飼いにしているのかは知らないが、カルチェ・ラタンの界隈をうろちょろしている豚なんだ。怒って突進してきたら人間なんて軽くぶっ飛ばしてしまいそうな巨体と、立派な牙を持っているから、獅子王と誰かが名づけたのさ」


「危なくないんですか」


「そりゃぁ、襲いかかられたらやばいだろうな。下手をしたら死ぬ。けれど、あいつは往来に散らばっている汚物を食べて掃除してくれる、俺たちにとってありがたい存在なんだ。だから、聖バルブ学院の学生たちには親しまれているよ。踏んづけたのなら、今度会った時には謝っておけよ」


 人間が豚に謝罪するというのもおかしな話だ。ただ、汚物の処理に頭を悩ましているパリの人々にとって、獅子王のような汚物を食べて歩く豚は欠かせないのかも知れないとファンは思うのであった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ