本屋の娘
売春宿を出て三時間後。ファンは途方に暮れていた。
「リリーさんの言った通りだったなぁ……」
パリに来て日が浅く、この都市の地理にまったく詳しくない田舎者が、真夜中に街を歩くなど自殺行為だった。グレーヴ広場にあるというサン・テスプリ施療院を目指していたのだが、気がついたら、カルチェ・ラタンの界隈に戻って来てしまったらしい。
ファンのように学院を抜け出して夜遊びをしている不良学生たちと何回もすれ違い、二度ほど「金を出せ」と別の学院の学生にゆすられた。
一度目は黙って睨み返したら、臆病な奴だったらしく、すぐに逃げた。だが、二度目は剣で脅してきたため、護身用の剣を抜いて相手の剣を叩き落としてやった。その男は悪態をつきながら逃走した。
「おい、ナタン。ここがどこらへんだか分からないか」
従者のナタンは、
「女も買わずに店の入口でへべれけになっているんじゃないよ、この酔っ払い!」
と、『薔薇の家』主人のエリザに尻を蹴られて、売春宿の外で眠りこけていた。それをファンが揺り起し、ひょろひょろと歩くナタンに肩を貸してやって、ここまで来たのである。
「ぐごー、ぐごー……」
「こいつ、立ったまま寝ているじゃないか。まったく、これではどっちが主人か分からない。連れて来るんじゃなかったよ」
はぁ、とファンはため息をつき、夜空に瞬く星々を仰ぎながら歩く。ナタンに肩を貸しながらなので、とても歩きにくい。これで道に汚物でも散らばっていたら、足を滑らせてしまうだろう。ファンがそんな心配をしていたら、
「うおっ!?」
実際、その通りになってしまった。ファン一人なら、足を滑らせても何とかなったのだろうが、ナタンの体重が重くのしかかって身体のバランスを崩し、主従は仲良く往来に仰向けで倒れてしまったのである。
「いてぇ!」
背中を強かに打ったファンは顔をしかめた。横ではナタンがこんな状況でもいびきをかいている。いよいよ憎らしくなってきた従者の額をファンはぺしんと叩いてやった。
「ふごっ……。ぐー、ぐー、ぐがー」
「これでも起きないとはな。ナタンには二度と酒は飲ませないぞ」
ファンがそうぼやいた直後、二人が倒れているすぐそばの建物の戸が開き、
「真夜中に人の家の前で騒いでいるのは誰さ!」
と、一人の小柄な少女が出てきて怒鳴った。体が小さいくせに、ものすごい迫力である。ファンは謝るために上半身を起こして少女を見上げたが、
「さては最近流行りの放火魔か!」
少女にしてはドスのきいた怒鳴り声をあげ、ファンの頭を箒の柄で叩いた。いきなりのことで避けられなかったファンは、「うわ! 何をする!」と叫び、逃げようと背を向けたが、ナタンの身体にけつまずいて再び倒れ、後ろから尻を三度も強く叩かれた。
「お、俺は放火魔なんかじゃない! やめろ!」
「嘘つけ! こんな夜中に街を徘徊しているなんて、放火魔か不良学生のどっちかだろう!」
「こ、後者だよ。俺は聖バルブ学院の学生だ。怪しい者ではない。道に散らばっていた汚物で足を滑らせて、こけちまったんだ。それで、大きな声を出してしまって……」
「そんな見え透いた嘘を……。うわっ、臭い。さては、酔っ払いが吐いたやつを踏んづけたな?」
ファンから漂う汚臭を嗅ぎ、ようやく納得した少女は攻撃の手を止めた。
「ちぇっ、しょうがないなぁ。ちょっと待ってな。拭くものを持って来てやるから」
少女はそう言うと、屋内に入っていった。
(何だ、ここ。本屋か?)
ファンが建物の中をのぞくと、古本独特のかび臭い匂いが漂ってきた。暗闇に目を凝らして見てみると、店にはたくさんの本があり、本棚に入りきらないものは床に積み重ねられている。かなり雑然としているが、探してみたら価値のある古い書物が見つかりそうな雰囲気の書店だった。
「不良学生。そのゲロ臭い身体で店に入るな。売り物に汚臭がついたらどうしてくれるんだ」
「す、すまない」
「ほら、拭きな」
少女は花柄のハンカチをファンにほうり投げた。よほど悪臭がしていて近寄りたくないらしい。
ファンは体のあちこちに付着した汚物をなるべく丁寧に拭き取り、いまだ眠りこけているナタンも綺麗にしてやった。……といっても、ハンカチで拭いただけではほんの気休めにしかならず、臭いはほとんど取れていないが。
「これ、ありがとう」
「馬鹿か。そんな汚いもの、もういらないわよ。くれてやる」
たしかにその通りだと思ったファンは「う、うん」と気圧されながら頷いた。それにしても、相当口の悪い子どもだ。まるで酔っぱらっているみたいである。
(顔が赤いから、もしかしたら、本当に酔っているのかも。いや、十三、四歳ぐらいの女の子が飲兵衛のはずがないか……)
少女は、「げふっ」とゲップをしながら、地面に倒れているナタンの身体を箒でつついた。
「ねえ。これ、あんたの連れでしょ? さっさとどけてよ」
「あ、ああ。迷惑をかけてすまなかった。……カルチェ・ラタンで放火騒ぎがあるのか?」
ナタンの身体を起こしながら、ファンは少女にたずねた。さっき、少女が「最近流行りの放火魔か」と言っていたのが気になったのである。
「まあね。どれもボヤ騒ぎ程度なのだけれど、不審火が近頃多いのよ。噂では、あんたらみたいに夜中遊び歩いている不良学生の仕業じゃないかって。……あんた、本当に放火魔じゃないわよね」
「違う。第一、火をつけるような道具を持っていない」
「……世の中にはね、火打石どころか指一本使わずに火をつける魔法使いがいるのよ」
「え?」
ファンは、少女の言葉を聞き、一瞬どきりとして彼女の顔を凝視した。少女は、何じろじろと見ているんだ、とばかりにファンの膝小僧を蹴る。ファンは「うっ」とうめき、その場にしゃがみこんだ。
「……まあ、私はうちの店さえ燃やされさえしなければ、犯人が誰だって構わないのだけれどね。放火魔じゃないのなら、早く自分の寄宿学校に帰りなさい。襲われても知らないわよ」
「い、いてぇ……。か、帰りたくても、ここがどこなのかが分からないんだよ」
「迷子なの? ああ、もう。本当に世話の焼ける坊やね。ちょっと待ってな。戸締りするから。あんたの学院の近くまで送ってあげる。たしか、聖バルブ学院って言っていたわよね」
子どもに「坊や」呼ばわりされて、ファンはムッとなったが、このまま帰れないのは困るので大人しく少女に従うのであった。
「おい、ナタン。いい加減に起きろ。行くぞ」




