第82話 もう一つの別れ(1)
2003年4月、20歳のジフン
時間を確かめると、十二時五十分だった。まだ十分ほどあったので、煙草を取り出した。カフェの中をのぞいたが、ジソンはまだいないようだった。週末を待つ間、落ち着かなさと、寂しいような、せいせいしたような気持ちが同時に訪れた。兄に言われたことを、ふと思い出した。
「どうせ入隊したら、みんな別れるんだ。いろんな子と付き合っとけ」
ジフンも、入隊前の恋愛については、真剣に考えないようにしていた。あまりに心を注いでしまうと、軍にいる間に別れたときの反動も心配だったが、何より、待っていてくれと言うのが性に合わなかった。もしかすると、その前に穏やかに別れられるなら、かえってよかったのかもしれない。そう思う一方で、まだ早いという未練もあった。
煙草を吸っていると、ジソンがカフェに入っていくのが見えた。ジフンは急いで煙草を消し、あとを追って入った。
「コーヒーを二つください」
長く話すつもりはないというように、ジソンはメニューも見ず、すぐに注文した。ジフンは落ち着かない様子で、爪の先でテーブルをとんとんと叩きながら、ジソンと目を合わせようとした。彼女の視線は、ほかのところを向いていた。
「何? 言いたいことがあるなら、言って」
コーヒーが来るまで沈黙が続くと、ジソンが先に口を開いた。実際に顔を見ると、別れたくない気持ちが先に立った。
「俺に何か不満があるの? あの夜、言ってたこと?」
ジソンはコーヒーをひと口すすり、カップを置いた。
「あれは何でもないよ。ジフンの言うとおり、好きな人と寝るのは自然なことだもの」
だったら何が問題なんだと、問い詰めたかった。はっきりした答えをくれず、遠回しに話しているようで、何を考えているのかわからず苛立った。今日までけんかをするわけにはいかなかった。ジフンはコーヒーをひと口飲み、煙草に火をつけながら、言葉を選んだ。それを見ていたジソンが先に言った。
「私が言ってるのは、『好きな人』ならってこと」
ジフンは黙っていた。何を言おうにも、反論しか浮かばなかった。
「ジフンは私のこと、好きじゃないでしょ。違う?」
「いや、好きだよ」
最後の意地が、音もなく崩れてこぼれた答えだった。ジソンはそれを聞くと、かすかに笑って答えた。
「ジフン。ジフンは私のこと、好きじゃないんだよ。でも、私は好きなの」
「だったら、何で別れるんだよ」
「考えてみて。私がどんな気持ちか」
ジフンはうつむいた。煙草が燃えていき、胸の内まで焼けるようだった。けれど、もう言葉が浮かばなかった。
「後悔しない?」
ジソンはわずかに顔をしかめた。ほどなく目に涙がたまり、慌ててティッシュを当てた。
「うん」
新しい煙草に火がつき、それを吸い終わるまで、二人とも何も言わなかった。涙を押さえて呼吸を整えたジソンが、無理に笑顔を作った。
「元気でね」
「うん。わかった。そっちも」
ジフンは灰皿で煙草を消し、席を立った。短く、あっさりとしていたが、痣のように残った別れだった。
週末の大学は閑散としていた。試験まで二週間ほどだったが、勉強する人の姿は見えなかった。そのおかげで、午後に着いた図書館の閲覧室には、空席がいくらでもあった。別れの余韻は、思っていたよりも深かった。ジソンと会ったあと、勉強などするためにイェインと約束したのは、馬鹿なことだった。酔った勢いで、どうせ別れるのだろうと決めつけて入れた予定だった。イェインさえいなければ、全部放り出して友達に連絡し、酒でも飲みたかった。
そうして長いこと、一ページ目さえめくれず、ぼんやり座っていた。ジフンはまた煙草を吸いに出た。久しぶりに味わう感情だった。こんな気持ちになるのだから、ジソンを好きだったのは確かだった。もっと必死に引き止めるべきだったのだろうか。その思いが、尾のようについて回った。木々の幹から枝へ、葉に接する空へと目を走らせながら、煙草ばかり吸っていた。吸い殻が一つ、二つと増え、時間もゆっくりと過ぎていった。
携帯電話が鳴った。イェインだった。
「ジフン、どこにいる?」
「図書館の裏で煙草吸ってる。今、戻るよ」
「ううん。私も一本吸ってから入ろう」
ほどなくイェインの姿が見え、ジフンは表情を取り繕った。
「ねえ、週末まで大学に来るなんて、私たち、優等生みたいだね」
「俺も、週末まで来ることになるとは思わなかった」
「勉強、進んだ? いつからいたの?」
いつ着いたのか、どれだけ時間が過ぎたのか、時間の感覚がなくなっていた。今が何時なのかさえわからず、携帯電話を開いて確かめた。
「三時間……経ったのかな」
もう午後五時を過ぎていた。見渡すと、明るかった昼の光が薄れ始めていた。
「時間も忘れて勉強してたの? すごいね」
「いや……そうだな」
時間が丸ごと消えたような気分だった。息苦しかったが、イェインには話したくなかった。
「天気もいいし。こういう日は昼から飲みたいね」
「中に入って、勉強しよう」
静かな場所にいたかった。イェインが来るまでは静かだったので、どうにか気持ちを落ち着かせていられた。彼女の声を聞くと、また心が乱れ、閲覧室に入りたくなった。
閲覧室で荷物を広げておいた席は、そのまま空いていた。高校時代のある一日が浮かんだ。それはやがて、あの頃の幾日もの記憶へと広がっていった。そのすべての時間と、今日の痛みが重なるようだった。周りの閲覧室の風景にも、妙な既視感が漂っていた。
「ジフン」
イェインが小声でささやいた。
「何?」
話のできない場所だったので、イェインは外を指さした。ジフンがすぐにわからずにいると、耳元でささやいた。
「試験勉強、教えてくれるって言ったでしょ。外でやろうよ」
やはり、今日約束したのは愚かなことだった。ジフンは仕方なく荷物をまとめ、閲覧室を出た。
閲覧室の外は、比較的自由に勉強できるスペースになっていた。席には着いたものの、自分もまだできていない勉強を教えるとなると、気が遠くなった。それよりも、やりたくなかった。それでも、入学したときから親しく接してくれた人には、できるだけのことをしようと思い、本を開いた。説明しているうちに、それまで受けた授業が自然と思い出された。
「だから、ここも大事だって言ってたと思う。これは絶対に試験に出るから、覚えとかなきゃいけなくて……」
詰まるところもあったが、ひととおり説明していると、いつの間にか時間が過ぎていた。今日の午後にあったことが、少しずつぼやけていった。退屈そうに聞いていたイェインが、ジフンの腕をつかみ、煙草を吸おうと身振りで示したので、外へ連れ出した。ちょうど一科目がほぼ終わり、ジフンも休もうと思っていたところだった。少し考えたあと、鞄ごと荷物を全部持って外に出た。
「どうしたの? どこか行くの?」
「うん。今日はここまでにしよう。友達に会いに行くから」
「ええ、本当? 今日は勉強が終わったら飲もうって言おうと思ってたのに」
今日は酒を飲みたくなかった。こんな気分で飲んでも、いいことはない。経験からわかっていた。
「また今度」
ジフンは重い鞄を背負い直し、煙草に火をつけた。
「じゃあ、明日は? 明日は何するの?」
「明日は……」
明日の予定は何も浮かばなかった。ジソンと付き合っていたら、会う約束をしただろう。けれど、もうジソンはいなかった。
「明日、何もないんでしょ? じゃあ明日も図書館で会おうよ。一人じゃ勉強できないんだもん」
頭を空っぽにして、試験勉強でもするのは悪くなさそうだったので、わかったと答えた。イェインも中へ戻り、鞄を取ってきた。二人はそうして別れ、それぞれの家へ帰った。




