第72話 二十歳(1)
2004年2月、21歳のジフン
携帯電話を開き、電話帳をスクロールした。番号を手に入れてから、まだ一度も連絡できずにいた名前のところで、指先が止まった。通話ボタンを押すと、受話口の向こうから呼び出し音が聞こえた。まだ朝の八時だったので、寝ているだろうかとためらいがあった。けれど、そんな心配も束の間、電話がつながった。
「もしもし?」
朝だというのに、明るい声だった。ジフンは震える声で答えた。
「あ……えっと。俺だけど」
「誰?」
一度電話番号を変えていたので、表示された番号を見ても、相手にわかるはずはなかった。
「ジフンだよ」
「えっ、ジフンなんだ」
戸惑いと懐かしさの混じった声だった。
「俺、今日入隊するんだ。挨拶だけでもと思って、電話してみた」
相手は少し黙ってから、静かに口を開いた。
「そっか……行く前に会うこともできないね。体に気をつけて行ってきてね、ジフン」
「うん。元気でね」
電話はそれで終わった。けれど、それだけで十分だった。今日から二年間、社会から離れる。その前に声を聞けただけで、気持ちが少し軽くなった。ジフンは急いで家へ駆け戻り、入隊に向けて出かける支度を済ませた。
複雑で、陳腐だった二十歳は終わった。
2003年9月、20歳のジフン
長い夏休みが終わり、後期の授業が始まった。時間割を見ると、また気が滅入った。
「大学に入ったら遊び放題で暇だって言ってたやつら、ただじゃおかねえ」
「専門大学の時間割って、どこもこんなもんらしいよ」
二年間で取らなければならないのは、八十単位だった。一学期につき二十単位を取るには、九つか十の科目を履修し、月曜から金曜まで、毎日学校にいなければならなかった。唯一の救いは、土曜日には学校へ行かなくていいことだけだった。
「ヒョヌ。俺、本当に納得いかないんだけど」
「何?」
「四年制は百三十単位だろ。だったら二年制は六十五単位じゃねえの? 何で八十単位なんだよ」
「俺もそこが不満なんだよな」
ヒョヌは、大学に入ってから親しくなった同級生だった。ほかにも何人かいたが、そのほとんどとは疎遠になっていた。
「新学期の飲み会、行くのか?」
「行かない」
ヒョヌの問いに、ジフンは短く答えた。
「まだ、ちょっと気まずい?」
「俺は気にしてねえよ。あいつらが勝手にごちゃごちゃ言ってるだけだ」
ジフンは、木陰のベンチの周りに集まっている男女を顎で示した。
「俺から、うまく話してみようか?」
余計なことはするなと、ジフンはヒョヌをにらんだ。
「何も言うなよ。俺は後ろめたいことなんかしてねえんだから」
「そりゃ……」
ヒョヌは言葉を濁した。
「高校のとき、友達がいっぱいいたんだけどさ。そのころも、いろんなことがあったんだよ」
「うん」
「ここに来てみたら、あんなの何でもなかった。こっちのほうがよっぽどジャングルだ」
大学生活には、少しも夢がなかった。映画やドラマで見たキャンパスライフは、幻想の中にしか存在しないようだった。同級生たちは、気の合う者同士で小さなグループを作った。あるグループでは中にカップルができ、すぐに別れた。グループは分裂し、別のグループと合流することもあった。表向きは仲よくしている人たちが、見えないところでは陰口や中傷を飛ばし、疑いや嫉妬が渦巻いていた。
前期の数か月に経験したことだけで、ジフンは大学生活への興味をすっかり失ってしまった。
時計を見ると、もうすぐ最初の授業が始まる時間だった。二人は飲みかけの缶に吸い殻を入れ、ゴミ箱へ放り込んだ。
「ジフン、ヒョヌ。おはよう。夏休み、楽しく過ごせた?」
そのとき、通りかかった誰かが声をかけた。ヒョヌはうれしそうに挨拶したが、相手の顔を確かめたジフンは、軽く頭を下げるだけだった。
「イェインさん! お久しぶりです」
「うん。教室、入ろう」
教室は、授業時間に合わせて入ってきた学生たちでいっぱいだった。詳しく見回したわけではなかったが、初日から姿の見えない人も何人かいた。
学期最初の授業は、出欠を取って始まり、その学期の予定を簡単に説明して終わることが多かった。初回から授業を進める教授もいたが、そんなときは、初日なのだから早く終わりにしようと、大声で駄々をこねる学生がいた。誰かが言い出すと、みんなであの手この手で教授に甘えたが、ジフンは加わらなかった。
――どうせ、授業をやろうがやるまいが、ろくに聞きもしないくせに。
今日の最初の授業もそうだった。教授は、二時間で要点を押さえて終わらせるからと、学生たちをなだめた。高校のころの、先生に対する態度とは、あまりにも違う光景だった。
短い休み時間になった。ジフンは机に頭を伏せた。高校のときも、同じような時間に登校していたはずなのに、大学生になってからのほうが疲れていた。今では堂々と飲んでも誰にも何も言われない、酒のせいかもしれなかった。誰かが近づき、机をとんとんと叩いたので、顔を向けた。
「ジフン。新学期の飲み会、行かないの?」
「行かないつもりだったけど」
ユジンはジフンの隣に座り、続けた。
「何で? 行こうよ!」
唐突な言葉に、ジフンは少し面倒になった。
「つまんないから」
「みんな、楽しいから行くと思う?」
タバコでも吸おうと、席を立った。
「どこ行くの。人が話してるのに」
返事の代わりに、タバコの箱を見せた。ユジンは喫煙場所までついてきた。二人はそれぞれタバコに火をつけ、煙を吐いた。
「それでも、仲のいい子が一人でも多くいたほうが楽しいじゃん。来るでしょ?」
そこまで親しかったと思ったことはなかったが、曖昧な返事で済ませた。
「考えとく」
最初の授業は、十一時になる前に終わった。ヒョヌとジフンは、昼食を取ろうと食堂に入った。
「今日はトンカツか」
学生食堂では、たった二千五百ウォンで、それなりに腹を満たせる日替わり定食が出された。ほかの建物にも食堂はいくつかあったが、ジフンはここがいちばん好きだった。調理科の建物から離れた場所にあった。同じ学科の学生をほとんど見かけず、食事の間だけは、気に障るものがなかった。
「ヒョヌ。お前、ほかに友達いねえの?」
ヒョヌは、トンカツとご飯を交互に頬張っていた。飲み込みきる前に答えるので、見ていて行儀はよくなかったが、憎めないやつだった。
「いっぱいいるよ。俺、誰とでも仲よくやるほうだから」
「じゃあ、何でいつも俺とつるんでくれんの。俺がかわいそうなのか?」
ヒョヌはご飯をごくりと飲み込み、笑った。
「俺はお前といちばん仲いいんだから、ほっとくのも何だろ。前期は、みんなで仲よくしてたと思うんだけどな。ほかのやつらも、本当はお前のこと嫌ってないよ」
「そうか? じゃあ、新学期の飲み会でも行くか」
「お、いいじゃん」
ジフンの大学生活は、まさにこの日から終わり始めた。




