第71話 第1部 エピローグ セハ(2)
何でもない一日の夕食が終わった。兄は何かを思い出したように、また家族に話しかけた。
「あ、ネットで高校卒業資格の検定試験の日程は全部調べたし、勉強もしてあります。それから……セハ」
「うん?」
「今年、お前と一緒に修能を受けるから」
「え?」
「さすがに、俺より悪い点は取らないよな」
にこにこしていたセハは、たちまち泣きそうな顔になった。
「もう、何でよりによって私と一緒に受けるの!」
その週末、兄は髪を切ると言って家を出た。いきなり外へ出るのは気が引けたのか、それまでに何度も夜に出たり入ったりして、まるで練習しているようだった。部屋の扉が大きく開いているところを見ると、無事に出かけられたらしかった。セハは兄の部屋へ入った。窓は開いていたが、何年もこもった、煙たいような空気が感じられた。母がきれいに片づけてくれていて、最後に見た兄の部屋とまったく同じだった。机の上も、すっきりと整っていた。そして、『2003年修能対策』という分厚い本もあった。
――もう、ほんと。いっそ、もうちょっと遅く出てくればよかったのに。
冗談めかしたことを考えながら、兄の机に向かって座った。パソコンが目に入った。セハの家には、パソコンが二台あった。一台は父の書斎、もう一台は兄の部屋にあった。兄が部屋に閉じこもる前は、一緒に使っていたパソコンだった。そのため、ここしばらくは急ぎの用事があると、父のパソコンを使うしかなかった。久しぶりに電源を入れた。やがて起動音が鳴り、画面にアイコンが並んだ。
――これ、まだ使えるのかな?
ずっとアクセスできずにいた、パソコン通信のアイコンがあった。クリックしてみると、以前とは少し変わっていたが、今でも接続できた。両親が料金を払い続けてくれていたのだと思った。
セハは、よく訪れていたページをあちこち見て回った。好きだった歌手のファンクラブにも、まだ残っている人がいた。『詩とエッセイ』のサークルも、よく訪れていた場所だった。こちらは、さらに寂しいほど人がいなくなっていた。今年に入って投稿された文章は、十本にも満たなかった。投稿を眺めていると、見覚えのあるハンドルネームが目に留まった。
『人形の騎士』だった。
その人の書いた文章は、以前、何度か読んだことのあるものだった。
――前は、ハンドルネームが『人形の騎士』だったことにも気づかなかったんだな。
一度聴いたことのある歌を思い出した。メロディーをたどろうとしたが、うまく思い出せなかった。去年の九月、最後に投稿された文章の題は、『ここを去ります』だった。この人もパソコン通信をやめるのかと思い、クリックした。
『これまで、たくさんの文章を投稿し、読んできた、私の人生の一部でもあったこの場所を離れます。名残惜しい気持ちでいっぱいですが、時代はもう、この場所を許してくれないようです^^ 最後に、文章を一つ残していきます。これは、私の人生で最後の文章でもあります。もう、書くための力も、場所もありません。キム・グァンソクの歌を思い出してつけた題は、「出せなかった手紙」です。
私たちは、貧しさを軽々しく語ることを禁忌とする。
けれど、心の貧しさはそうではない。
空っぽの心は、ときに詩となり、歌となる。
誰かが、魂を失い、道を誤った者に石を投げる。
石を投げるなら、受けよう。それでも私は歌う。
貧しい心に石を満たし、君のために詩を紡ぐ。
授けられた言葉の塔に埋もれたい。
あの山の上に突き出た柱にもたれ、思い出をたどりたい。
許された記憶は残っていないが、それさえもありがたく思う。
もし君の胸に、ひと粒の塵でも、そのまま残っているなら
ついに届けられなかった手紙の名残と思ってほしい。
私はここに残り、埋もれてゆくから、その手紙さえ焼いて去れ。
もし誰かが私を見つけたとき、一文字でも残っているなら
君の名前であってほしい、
君の声であってほしい。
では、皆さん、どうかお幸せに』
短い文章の意味を、すべて理解できたわけではなかった。それでも、書いた人の感情が、胸をえぐるようだった。いろいろな思いが浮かび、手の甲で涙を拭った。この人が、最後に聴きたいと願う声を、どうか聴けますようにと思った。何人かがコメントを残していた。元気でね、といった言葉だった。くだけた口調で書かれていて、親しかった人なのだろうかと思うものもあった。
セハも、まるで知り合いだったような気持ちになり、コメントを残した。
『どうか、お元気で』
第1部 完




