第70話 第1部 エピローグ セハ(1)
2002年3月、19歳のセハ
「離してって言ってるでしょ!」
セハの鋭い叫びが響き渡った。二人の男女は、静かな夜を引き裂くように言い争っていた。
「だから、俺の話を聞けって!」
「嫌!」
セハの顔は、やり場のない怒りに満ちていた。どんなに力を込めて振りほどこうとしても、腕を引き抜くことができなかった。
「はあ……ほんと、くそ……」
ガンウンも、もう我慢できないというように、低く悪態交じりのため息をついた。セハは力いっぱいその手を振りほどき、言った。
「ねえ、知ってる?」
ガンウンは何も言わず、苛立った顔でセハを見下ろした。
「私、あんたに会うときは、いつも仮面をかぶるの。笑顔の仮面を探すの。一緒にいると、本当の気持ちが出てきそうだから!」
「今度は何の話だよ」
セハは、あきれたように笑い声を漏らし、涙を拭った。
「自分をすっかり隠さなきゃ、あんたとは会えない。そんな自分が惨めでたまらないの。もう、やめる」
「おい!」
背を向けるセハに投げつけるようなガンウンの怒鳴り声からは、もう愛情は感じられなかった。それはセハも同じだった。セハは振り返り、最後に残っていた糸を断ち切った。
「何? また車にでも突っ込むつもり?」
ガンウンの顔が歪んだが、構わず続けた。
「もう知らない。あんたがどうなろうと」
ガンウンがもう追いかけてこないのがわかった。エレベーターの扉が閉まって、ようやく安堵のため息をついた。家の中は静かだった。セハはそっと自分の部屋の扉を開け、中へ入った。鏡を見ると、涙で化粧がにじみ、ひどい顔になっていた。洗う気力もなく、ティッシュを押し当てて拭き取ると、そのまま枕に顔を埋めてうつ伏せになった。しばらく、涙が枕を濡らし続けた。未練の涙ではなかった。別れの悲しみでもなかった。時間を失ってしまったような気がした。かつては、すべてを差し出しても惜しくないと思っていた、自分の心への申し訳なさだった。その申し訳なさが悔しくて、勢いよく起き上がり、歯を食いしばって顔を洗った。化粧の跡はきれいに落ちたが、目はひどく腫れていた。その目を見ると、また涙が出そうになった。
翌日、セハは学校が終わるとすぐ、携帯電話の店に寄った。扉を開けて入ると、カウンターに座っていた店員が笑顔で用件を尋ねた。
「本日は、どのようなご用件でしょうか」
「電話番号を変えたいんですけど」
一刻も早く、番号を変えたかった。ガンウンの番号は、もう消してあった。頭に焼きついた番号だったが、時間が曖昧にしてくれることを願った。塾へ行く気にもなれなかった。塾の並ぶ通りまでは来たものの、どうしても中へ入って授業を受ける気にはならなかった。マクドナルドに入り、席に着いた。食欲もなく、コーラ一杯だけだった。携帯電話を取り出し、いじった。友達には、変わった番号を知らせなければならなかった。けれど、それさえも気が進まなかった。
――あ、ジュミョン……と、ソヒョン? それから……。
ジュミョンとソヒョンには、すぐに連絡した。けれど、ガンウンとつながりがありそうな友達には、結局連絡できなかった。いっそ、このほうがいいのかもしれないと思った。
――あ……それから……。
セハは、思い浮かんだ友達にメールを送りたい気持ちを、ぐっとこらえた。ジフンと別れてから、一度も連絡できずにいた男の子たちだった。インスだけは、ジュミョンと一緒に何度か会った。インスは何でもないことのように接してくれたが、セハは笑えなかった。電話帳をスクロールし、何度もためらったが、結局それ以上、誰にも連絡できなかった。家族には会って伝えようと思い、半分ほど残ったカップを持って席を立った。ただ番号が変わったと言えば、理由をあれこれ聞かれるかもしれなかった。顔を合わせ、笑って説明したほうがいいと思い、言い訳を考えた。
電話番号を変えると、ずいぶん気が楽になった。以前別れたときは、ガンウンが家の近くにいるかもしれないと、辺りを見回したこともあった。会いたいからではなく、避けるためだった。もう、それさえ気にならなかった。いつ、どこで顔を合わせても、言うことは決まっていた。
「ただいま」
今日は母も父も早く帰る日で、家の中は明るかった。
「お腹すいた。ご飯……あれ?」
今日の明るさは、いつもと違った。家の中にこんな活気があったのは、いつ以来かも思い出せなかった。兄の部屋の扉が開いていた。台所へ入ると、見慣れた姿が目に入った。ずいぶん伸びた髪に顔が半分ほど隠れていたが、ひと目でわかった。
「お兄ちゃんだ!」
母も父も笑っていた。兄だけは照れくさいのか、セハをちらりと見ると、食べることに専念した。セハも四人掛けの食卓の、兄の隣に座った。母はすぐにご飯をよそい、セハに差し出した。三年ぶりに家族全員が食卓を囲んだにしては、静かな食事だった。
父は何度か咳払いをしてから、ニュースの話を始めた。兄もうなずき、まるで昨日も一緒に話していたかのように答えた。セハは涙よりも笑みがこぼれた。不思議なくらい楽しかった。昨日の嵐のような記憶が、きれいに消えていく気がした。
ご飯をたっぷり食べた兄が、スプーンを置いて口を開いた。
「あの……何か月か前に」
兄が話し出すと、みんな耳を傾けた。
「セハが……突然、部屋の扉を叩いたんです」
セハは、そんなことがあっただろうかと記憶をたどった。
「一度も叩いたことのなかった扉を、どんどん叩いて……ただいまって叫んで、そのまま行っちゃって」
あの日の記憶が、頭の中に広がった。デヒョンに書いた手紙を燃やした日だった。そして、そのあとのことも、はっきりと思い出した。
「あまりにも普通の声だったから、目が覚めるような気がしたんです。外に出て、セハに会いたくなって。母さんにも、父さんにも」
母の目には、うっすら涙が浮かんでいた。それでも、顔は笑っていた。
「もちろん、そのあともしばらくは部屋にいたけど……頭の中も整理できたし。もう、大丈夫です」
父が食卓に腕を置き、身を乗り出して答えた。
「そうか。よくやった。みんな、信じてたよ」
心地よい会話の中で、セハが思い出した言葉は、たった一つだった。
「友達がね、言ってたの。何でもないと思えば、本当に何でもなくなるんだって」




