第69話 第1部 エピローグ ジフン(2)
初めて足を踏み入れた大学のキャンパスは、高校とは比べものにならないほど広かった。案内図から大会の会場になっている建物を探すだけでも、ずいぶん時間がかかった。ジフンは道に迷わないよう、何度も標識を確かめた。やがて会場の建物の前に着くと、大きな横断幕が目に入った。
『第40回 全国高校生文学コンクール』
スタッフの指示に従い、予選通過の通知書を見せて名前を確認してもらい、案内を受けた。入ったのは大きな講堂だった。これまで見た中で、いちばん広い講堂だった。前の列には、詩、随筆、戯曲、小説という札が置かれていた。ジフンは詩の席を探して座った。全国から集まった数え切れないほどの学生が、講堂を埋め尽くしていた。
――やっぱり、予選は全員通してるんだな。
詩の部門で参加している学生が、圧倒的に多かった。何人選ばれるのかわからなかったが、望みは薄そうだった。コンクールは、すぐには始まりもしなかった。それどころか、開会は九時だった。開会式があり、催しの紹介、審査員の紹介。大学の紹介や開催の趣旨の説明、先輩たちの受賞作の紹介と朗読などで、午前中は過ぎていった。退屈な日程が続き、ジフンはうっかり眠ってしまいそうだった。
本格的に始まったのは、昼休みが終わってからだった。司会者がコンクールの開始を告げ、詩の題が発表された。
題は「燃灯」(※釈迦の誕生日などに寺へ飾る灯籠)だった。
――燃灯って何だ?
考えたこともない題に、ジフンは戸惑った。燃灯が何なのかは、すぐに思い出した。けれど、その題について書きたいと思える理由は、見つからなかった。
自分にものを書かせる力は、もう一つしか残っていないのだと、あらためて感じた。だが考えてみれば、それほど難しいことでもなかった。題とそれを、どうにか結びつければよかった。ノートを取り出し、浮かんだ言葉をいくつか書き留めた。
書いたものを読み返すと、自分が何だかばかみたいに思えた。緑に覆われた寺と、その周りを彩る燃灯の下で、まるで関係のないイメージばかりを、やみくもに言葉にしていた。そうして書き連ねたものは、結局、題と何の関係もないことばかりだった。題はどこにも見当たらなかった。とうとう伝えられず、胸にのみ込んだ痕跡だけが、あちこちにこびりついていた。ジフンは苦笑し、原稿を提出すると、そのまま講堂を出た。
日が暮れるまでには、まだずいぶん時間があった。何となく家に帰りたくなくて、友達に次々と電話をかけた。デヒョンとヒジェ、ヒソルはヤンジェにいた。インスとジュミョンも、もうすぐ来るという連絡を受けた。今日は、ヒソルの友達の誰かの誕生日だった。また大勢が集まるのかと思うと気が進まなかったが、ほかにすることもなく、ヤンジェ行きのバスに乗った。今日の飲み会もタラクだった。友達と外の遊び場で、何をするでもなく座って過ごし、予約の時間に合わせてタラクに入った。ヒソルの学校の友達が何人も集まっていた。初めて見る男子も大勢いた。ジフンたちは入り口近くの席に座り、にぎやかな夜を過ごした。
「で、お前ら、どこの高校だって?」
「ソンムン高校」
ごつい顔つきの男子が一人、酔ってしゃべり続けていた。こういう席で親しくなることはよくあったので、話しかけてくるのは構わなかった。けれど、ジフンはその柄の悪い態度が気に入らなかった。相手はデヒョンとヒジェがしてくれた。そいつも、ヒソルの新しい友達の一人だった。
「俺はケリョン高校。よろしくな」
ジフンは思わず顔をしかめた。よろしくとグラスを合わせていたそいつと、一瞬目が合った。ジフンは笑って、目をそらした。
ケリョン高校は、ガンウンの通う学校だった。ジフンはなるべく、そちらを気にしないようにした。気のいいヒジェが相手をしてくれた。それでも、そいつの声は絶えず耳に入ってきた。話はあちこちに飛び、知り合いの話になり、とうとうソヒョンの名前が出た。
「あの子の話、しないでくれる?」
ヒソルが話を遮った。柄の悪いそいつは笑い、口を覆う仕草をした。ヒソルとソヒョンの間に何があったか、全部知っていながら、わざと持ち出したような気がした。ヒソルの顔から笑みが消えていった。ジフンはそれ以上聞きたくなくてタバコに火をつけ、少しでも離れようと背もたれに体を預けた。
「あいつらの学校、何人かいるんだよ。変なやつ」
その言葉に、ヒソルがそっけなく答えた。
「今度は誰の話?」
「チャ・セハだったかな。友達の彼女だったんだけど、男をとっかえひっかえしてるみたいでさ」
その名前だけは、出してはいけなかった。それがわかっている友達は、もう笑って相手をすることができなかった。ヒソルもジフンをちらりと見て、止めようとした。けれど、ジフンはその名前を聞き逃さなかった。
「お前、あの子を知ってんのか?」
騒がしい中でも、ジフンの声ははっきりと届いた。ジフンの周りだけに、沈黙が落ちた。
「知ってるよ。友達の彼女だったって言ってんだろ?」
「言葉には気をつけろよ」
できる限り抑えた警告だった。けれど、そいつはやめなかった。ジフンの口の利き方が気に障った様子を隠さず、言った。
「お前、あいつと何かあんの? ああいう女を何て呼ぶか、知ってるか?」
ジフンの表情は微動だにしなかった。ヒソルはやめなよとそいつを引っ張ったが、止められなかった。
「あばずれ」
そのあとのジフンの行動は、誰にも止められなかった。一瞬の出来事だった。手にしていたビールグラスが、そいつの背後で粉々に砕けた。そいつはまばたき一つせず、笑いながらジフンをにらんだ。二人はもう、何も言わなかった。ジフンが先に立ち上がり、そいつがあとについて出た。デヒョンとヒジェ、インスも席を立った。そいつの友達らしい数人も一緒に席を離れた。残った子たちは悪態をつきながら、ガラスの破片を片づけた。
人気のない地下駐車場で、二人の少年は向き合った。ジフンは怒りを抑えきれず、泣き出しそうになっていた。そいつはまだ笑っていた。すぐにけんかが始まったが、長くは続かなかった。ジフンは地面にうつ伏せになり、何度も殴られ、蹴られた。意地で立ち上がり、抵抗もしたが、歯が立たなかった。とうとう血が流れ、けんかはひとまず収まった。デヒョンが割って入り、そいつを止めて、場は落ち着いた。ジフンは息を切らし、座り込んでいた。
「おい、くそ。すげえ血だぞ。薬局か病院に行かないと」
インスがジフンの顔を念入りに見た。左目が腫れ、唇には小さな傷があった。
「おい。顔はこのくらいで済んでんのに、いったいどこから血が出てんだ?」
顔は血まみれだったが、切れたところも、大きな傷もなかった。血は左手の甲から流れていた。顔の血はすべて、手の甲でぬぐったときについたものだった。
「これ……縫わなきゃだめだろ」
友達がジフンを立たせたが、そいつはまだ終わっていないとでもいうように、立ちはだかった。
「どこ行くんだよ。好き勝手やった分の落とし前はつけてもらわねえとな」
ジフンも支えてくれていた友達の手を振りほどき、また出ていこうとした。デヒョンが二人の間に立ち、低い声で言った。
「俺たちもセハの友達だ。ここにいる全員を相手にすんのか?」
そいつは鼻で笑うと、あざけるように道を空けた。
救急外来で、ジフンは五針縫う処置を受けた。
「でも、お前、すげえうまくガードしたんだな。手の甲だけで済んだってことは」
インスは軽口をたたきながら、ジフンの肩を揉んだ。
ジフンは友達に寄りかかり、声を上げて泣いた。手の甲を縫う痛みのせいではなかった。




