第65話 第1部 エピローグ インス(2)
「確かにうまいな」
春川で食べているからなのか、一緒にいる二人が記憶の彼方へ連れ戻してくれたからなのか、タッカルビは本当においしかった。
「でしょ? こっちに三年くらい住んで、タッカルビのお店だけで五十軒は行ったと思う。その中で、ここが一番」
「正確には、明洞で一番ね」
二人のやり取りを聞いていると、楽しかった。けれど、やはりあのメールについては、一言も触れなかった。少し事情を話してくれたカヨンも、当の送り主であるウニョンも、二時間バスに揺られてきたインスも同じだった。
「明洞で一番ってことは、ほかにもあるのか?」
「いっぱいあるよ! ここから近いんだけど、歩いて行くのは難しいかな。今度、彼女と予定合わせて来なよ。教えてあげる」
ウニョンの言葉が、癪に障った。カヨンはちらりとインスを見てから、締めの炒めご飯を頼んだ。
「食べたら、どこか静かなところに行こうか? ここ、落ち着かないよね」
ウニョンはにこにこしながらインスに尋ねた。インスも笑って、いいよと答えた。話を聞いていたカヨンも口を挟んだ。
「最近はサッカーのせいで、どこへ行ってもこんな感じだけど、どこがいいかな」
「コンジチョンでも行く?」
ウニョンは自分でそう言ってから、残念そうな顔をした。店のおばさんに聞こえないよう、ひそひそ声で続けた。
「コンジチョンに行くなら、ここよりもっといいお店にすればよかった。思いつかなかったな」
インスは、どこでも構わないというように笑って答えた。
「ここだっていいじゃん。次に行けばいいよ。行くことになったら、聞くから」
次があるだろうか、と思った。そして、その次には当然ウニョンはいないかのように言った。今日が終われば、春川は一番嫌いな街になるかもしれない。
三人はコンジチョン沿いを歩き、日陰を見つけた。中学時代の話をしていると、時間が経つのも忘れた。先生や、面白かった友達の話だった。
「そういえば、ペ・ヨンヒョンは何してるんだろう」
ウニョンが、カヨンの中学時代のぎこちない恋の相手の名前をぽんと口にしたので、その場はますますにぎやかになった。
「あのころ、楽しかったよね。カンナム駅の辺りは、またどう変わったんだろう」
「タワーレコードもなくなったし、アンガスもなくなってたよ」
ウニョンはにこりと笑って答えた。
「うん。見たよ」
知っているということは、いつかカンナムに来ていたのだろう。すぐ近くまで来ていたのに連絡もなかったことが、何となく寂しかった。
「アンガス、また行きたかったのにな。残念。好きだったものが、一つずつなくなっていくのを見ると」
「ねえ、さっきからずっと携帯震えてるよ」
カヨンが不意に、インスのポケットから聞こえる振動音を指摘した。インスは携帯電話をそっと取り出した。ジュミョンだった。親戚の家に行くと、言い繕ってあった。電話が切れると、携帯を操作し、音も振動も出ない設定に変えた。
「気にしないで。ジフンだよ」
インスの言葉に、ウニョンがうれしそうな顔をした。
「イム・ジフン! 元気にしてる? 会いたいな!」
ジフンのことも、格好の話題にはなった。けれど、この数か月をどんな気持ちで過ごしてきたか知っているだけに、詳しくは話せず、言葉を控えた。
「変わんねえよ。ジフンにも連絡してみたら?」
「あいつ、連絡しても無視するんだもん」
連絡はしていたのか、と思った。中学時代、一緒に遊んでいた仲間たちの心は、そうして散らばっていた。
時間は、ゆっくりと、確実に過ぎていった。時計を見ると、四時近くだった。インスはそろそろ帰ろうかという様子で、取っておいた言葉を口にした。
「ところで、彼氏と別れたとか、そういうことなのか?」
聞きたいことはほかにあったが、遠回しに尋ねた。ウニョンは顔をしかめた。
「うん。あのクソ野郎」
どうやら、円満な別れではなかったらしい。欲しかった答えが聞けるとも思えなかった。それ以上聞くのもためらわれ、インスは立ち上がりながら言った。
「帰らないと。先は長いから」
二人はターミナルまで見送りに来てくれた。カヨンはこの上なく明るく笑い、またねと手を振った。インスはウニョンに手を差し出した。その手を見つめるウニョンの顔は、どこか寂しそうだった。その表情に、インスの心も揺れた。
手を取って握手をしようとしたウニョンは、握手の代わりに抱きしめることを選んだ。インスの首にぎゅっと腕を回し、耳元でささやくように言った。
「元気でね。私のこと、いっぱい考えてね」
ウニョンの別れの言葉は、どこか震えているようだった。インスは黙って、その背中を軽く叩いた。二人は発車するバスのすぐそばまで来て、最後まで手を振ってくれた。その姿を残して、バスはソウルへ出発した。遠ざかる二人を見ていると、名残惜しさも湧いてきた。車内のラジオでは、サッカー中継の真っ最中だった。乗客はみな、耳をそばだてていた。心の乱れるインスには、中継の声が少しも入ってこなかった。
ウニョンが引っ越す前の日を思い出した。
「私、引っ越すんだ。行く前に、一度会おうか?」
十七歳の五月だった。突然かかってきた電話で待ち合わせの時間を決め、タワーレコードの前に向かった。ウニョンは明るい顔をしていたが、インスはそうはいかなかった。
「どこに引っ越すんだ?」
会うなり尋ねると、ウニョンは淡々と答えた。
「春川」
どこにあるのかも知らない場所だった。江原道だということしか、わからなかった。
二人はそうして、引っ越し前の最後の夜を一緒に過ごした。
「いつも送ってくれたから、今日は私が送ってみるね」
「うちまで、かなり坂を上るぞ?」
「とりあえず行ってみよう」
インスはウニョンと一緒に、家へ続く坂を上った。上り始めると、もうきつくなったのか、ウニョンが手を握ってきた。
「ねえ、引っ張って」
インスは黙って手に力を込め、ウニョンを引いた。毎日のように上るインスには慣れた坂だったが、ウニョンにはつらい道だった。
「ああ、ほんときつい」
「もう帰りなよ。まだまだあるから」
インスは、息の上がったウニョンの手を離し、足を止めた。
「そうしようかな。今から戻っても、結構かかりそう。じゃあ、ここでお別れしようか?」
ウニョンは、もう一度手を差し出した。インスもその手をしっかり握り、握手を交わした。
「じゃあ、行くね。元気でね。また会うんだからね!」
ウニョンはそうして、カンナム駅へ続く坂の下へ消えていった。見えなくなるまで、インスはその後ろ姿をじっと見送った。
次はいつ会えるのか、わからなかった。好きだと言いたかった。行かないでほしいとも言いたかった。インスにとって、カンナム駅へ下る坂道は、そんな景色として残った。
蘇るあの日が、今日と不思議に重なった。涙がこみ上げてきた。サッカー中継や乗客の声が響く中、一人で鼻をすすりたくはなくて、奥歯を食いしばったまま、二時間を耐えた。
東ソウル・バスターミナルに着くと、大きなスクリーンの前に人が群がっていた。スコアは〇対〇だった。準々決勝の勝敗は、今まさにPK戦で決まろうとしていた。詳しい状況はわからなかったが、インスも足を止め、スクリーンに目を凝らした。選手の放ったシュートが、激しくネットを揺らした。髪をなびかせて喜びを爆発させる選手に、チームメートが続いた。同時に、試合を見守っていた人たちは一斉に両手を高く上げ、独立を勝ち取ったかのように叫んだ。
「テーハンミングク!!」
誰かの掛け声に、応援の波が広がった。ターミナルは、人々の足と歓声に合わせ、地震が起きたように揺れた。隣の人が何を言っているかも聞こえないほどの歓声が、耳を打った。インスも熱狂の波に加わり、一緒に声の限りに叫んだ。
インスの涙は、その大きな歓声の中に、静かに埋もれた。




