↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
64/77

第64話 第1部 エピローグ インス(1)

2002年6月、19歳のインス


 売店は生徒でいっぱいだった。首を伸ばし、何を食べようかと迷っているうちに、目をつけたものを誰かに取られてしまう。

「おい。お前、何食う?」

「何でも」

 ジフンはずっと、誰かとメールをやり取りしていた。売店にも行かないと言うのを無理やり引っ張ってきたが、気持ちは携帯電話にばかり向いていた。

「パン食おうぜ。あのソーセージパン」

 その言葉に、ようやくジフンが顔を上げた。

「パンなんかいらねえよ。実習で毎日食いまくってるから、もう飽きた。菓子とコーラにしようぜ」

 インスは人混みをかき分け、パンと菓子、それに飲み物を二本買ってきた。

「おごってまで、お前を連れてこなきゃいけねえのかよ」

「お前が来ようって言ったんだろ。いただきます」

 ジフンは笑いながら、菓子を一つ取った。


「誰とそんなにメールしてんだよ」

「いるんだよ。知り合いのお姉さん」

 ジフンは最近、何人も彼女を取っ替え引っ替えしていた。誰に対してもいい加減に接しているようで、それでも連絡は続けているところを見ると、彼なりのやり方ができたらしかった。

「よし、食おう」

 ようやく携帯電話をしまい、菓子と飲み物を開けた。少し前まで半分放心したように過ごしていたことを思えば、今のほうがましなのかもしれなかった。

「料理の学校はどうだ。続けられそうか?」

「うん。俺、意外と火には強いんだよ。夏の男だからかな」

 ジフンは三年になり、料理の道に進むと決めてから、ますます遊んでばかりいた。今まさに受験勉強に力を入れているインスには、うらやましくもあった。その一方で、やればできるやつが勉強を投げ出したも同然なのは、もったいなくも思えた。

 ――まあ、自分で決めることだ。

「お前は? 勉強、はかどってるか?」

「まあな」

 インスはインスで、勉強に集中できずにいた。ジュミョンもインスと同じく料理の道に進むと決めてからは、遊ぶことばかり考えていた。

「何が、まあな、だよ。いい大学に行って、俺の無念を晴らしてくれ」

「ほざけ」

 短い休み時間は、そうして笑っているうちに過ぎていった。


 ポケットで振動を感じ、携帯電話を取り出した。見なくても、ジュミョンに決まっていた。

『インス。元気?』

 ウニョンだった。あまりに久しぶりで、一瞬、頭の働きが止まった。

『元気だよ。そっちは?』

 返事はなかった。いつもこうだった。何か月かぶりに突然連絡を寄こし、二言三言やり取りすると、また姿を消す。蜃気楼のような女だった。

「何してんだ。授業、遅れるぞ」

「ああ。行かないと」

「何だよ、誰から?」

「イ・ウニョン」

 ジフンは顔をしかめた。

「今度は何だよ?」

「さあ。元気かって聞いてきたきり、返事ねえんだ」

「あいつ、いっつもそうだよな」

 ウニョンは、ジフンとも同じ中学の同級生だった。そんな連絡の仕方が気に入らず、ジフンはとっくに縁を切っていた。

「生きてるか確かめてるだけだろ」

「変わりすぎだろ、あいつ」

 変わったのはお前のほうだと言いたかったが、インスは口をつぐんだ。代わりに、一緒に笑ってやり過ごした。


 ジフンは放課後に会おうと言い、廊下へ消えていった。教室に入ろうとした瞬間、握っていた携帯電話がまた震えた。

『彼女いないなら、私と付き合う?』

 唐突なメールだった。中学時代の出来事や、いくつもの感情が、一瞬で頭をよぎった。真っ先に湧いてきたのは、不安だった。少しもうれしくなかった。インスは教室へ向けていた足を、トイレへ向け直した。

『どうした。何かあったのか?』

 空いている個室に入り、便座に腰を下ろした。やはり、すぐに返事は来なかった。もう教室に戻ろうかと思ったところで、メールが届いた。

『嫌ならいいけど』

『そうじゃなくて。じゃあ、今週末に会わないか? 俺が行くから』

『春川(チュンチョン)まで来るの? すごく遠いよ』

『構わないよ』

 それからは、テンポよく言葉が行き来した。週末のジュミョンとの約束は、何とか口実をつけて断ろうと考えた。

『じゃあ、春川の明洞(ミョンドン)に来て。一時ね』

 インスは複雑な思いを抱えたまま、長いこと座っていた。



 週末の東ソウル・バスターミナルは、大勢の人で混み合っていた。窓口で十時発の春川行きの切符を買い、しばらく待つと、乗るはずのバスがやってきた。運転手に切符を確認してもらい、席を探して座った。

 ――俺、何やってんだろう。

 考えるほど、自分がおかしく思えた。高校生、それも三年生の自分に、ソウルと春川で遠距離恋愛などできるはずがなかった。ウニョンの性格も知っていた。ただ、言ってみただけなのだ。それなのに、磁石でもついているかのように、足は春川へ向かっていた。もしかしたら。その、もしかしたらという気持ちが、インスを春川へ向かわせていた。


 噂どおり、春川の明洞は若者の街だった。中学生から高校生、大学生まで、赤いTシャツを着た人たちで、昼間から活気にあふれていた。時計塔の前は待ち合わせ場所なのか、大勢の人が携帯電話を覗いたり、ときどき電話をかけたりしながら、連れを待っていた。あっちもこっちも赤いTシャツばかりで、インスの服装のほうが、かえって浮いて見えた。

「インス。元気だった?」

 カヨンだった。ウニョンからは、少し遅れるから先にカヨンと会っていてほしいと、メールが来ていた。

「カヨン、やあ。久しぶり」

 カヨンも、同じ中学を出た友達だった。偶然なのか、二人とも同じような時期に春川へ引っ越していた。

「すげえ人だな」

「今日は準々決勝だもん。大騒ぎだよ。ソウルはもっとすごいでしょ?」

「まあな」

 試合のある日は、人の集まる場所ならどこも熱狂の渦に包まれた。インスも友達も、高三だということを忘れ、その熱気に夢中になっていた時期だった。


「とりあえず、コーヒーでも飲もう。ついてきて」

 カヨンは慣れた足取りで先に立ち、どこかへ向かった。明洞の中心街から少し離れると、静かなカフェがあった。

「ここ、いいでしょ? よく来るんだ。ウニョンはあと三十分くらいかかるって。来たらご飯食べよう」

 席を取り、飲み物を一つずつ頼んだ。カヨンはブルーベリーシェイク、インスはカフェラテにした。ほどなく飲み物が届き、二人は積もる話を交わした。

「あのころは本当に小さくてかわいかったのに、ずいぶん背が伸びたね」

「中学のころと比べるなよ。もう二年以上経ってんだぞ」

 久しぶりに会った友達は、変わらなかった。少しの間、中学時代に戻ったような気がした。けれど、それは振り払ってしまいたい記憶でもあった。

「彼女はいないの? うーん……」

 カヨンはそう尋ね、インスの指をじっと見た。左手は黒く日焼けしていて、薬指には白い跡が残っていた。

「ああ……これか。別れたんだ」

「そっか。ウニョンも、この間ちょっとあってね」

 だいたい、予想はしていた。それで、腹立ちまぎれに自分に連絡したのだろうか。疑いは、確信に変わった。


「ウニョンから、何か聞いてないか?」

「何を?」

「付き合おうってメールが来たんだ。ほとんど冗談みたいな感じで」

「え? いつ?」

「火曜日」

「ああ……」

 その反応で察しがついた。おそらく、その日か月曜日あたり、あるいは前の週末に別れたのだろう。

「それで来たの?」

「本気で付き合おうって言ったわけじゃないのは、わかってるよ。ただ、何かあったのかと思ってさ。久しぶりに、こうして遊びにも来られるし」

「そっか……」


 少し、沈黙が流れた。カヨンは時計を確認し、急いで言葉を続けた。

「忘れなよ。期待は……しないほうがいい」

「してねえよ。おかげで、こうして顔も見られたしな」

 インスは笑って答えたが、心の中は違った。大学進学や春川での暮らしについて少し話していると、カフェの入り口に懐かしい顔が見えた。

「わあ! インス、いつぶり?」

 春の勿忘草のような子だった。どこか危うく、手の届かない人のように遠く感じられた。変わったのは、伸びた髪だけだった。こうして顔を見ると、中学時代の記憶が次々と蘇った。

「お前も変わんねえな。会えてうれしいよ」

「うん。ここまで来てくれて、ありがと。ご飯食べに行こう。春川に来たなら、タッカルビでしょ」

 タッカルビなら、ソウルでもいくらでも食べられた。それでもインスは、先を行く二人に黙ってついていった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。