第64話 第1部 エピローグ インス(1)
2002年6月、19歳のインス
売店は生徒でいっぱいだった。首を伸ばし、何を食べようかと迷っているうちに、目をつけたものを誰かに取られてしまう。
「おい。お前、何食う?」
「何でも」
ジフンはずっと、誰かとメールをやり取りしていた。売店にも行かないと言うのを無理やり引っ張ってきたが、気持ちは携帯電話にばかり向いていた。
「パン食おうぜ。あのソーセージパン」
その言葉に、ようやくジフンが顔を上げた。
「パンなんかいらねえよ。実習で毎日食いまくってるから、もう飽きた。菓子とコーラにしようぜ」
インスは人混みをかき分け、パンと菓子、それに飲み物を二本買ってきた。
「おごってまで、お前を連れてこなきゃいけねえのかよ」
「お前が来ようって言ったんだろ。いただきます」
ジフンは笑いながら、菓子を一つ取った。
「誰とそんなにメールしてんだよ」
「いるんだよ。知り合いのお姉さん」
ジフンは最近、何人も彼女を取っ替え引っ替えしていた。誰に対してもいい加減に接しているようで、それでも連絡は続けているところを見ると、彼なりのやり方ができたらしかった。
「よし、食おう」
ようやく携帯電話をしまい、菓子と飲み物を開けた。少し前まで半分放心したように過ごしていたことを思えば、今のほうがましなのかもしれなかった。
「料理の学校はどうだ。続けられそうか?」
「うん。俺、意外と火には強いんだよ。夏の男だからかな」
ジフンは三年になり、料理の道に進むと決めてから、ますます遊んでばかりいた。今まさに受験勉強に力を入れているインスには、うらやましくもあった。その一方で、やればできるやつが勉強を投げ出したも同然なのは、もったいなくも思えた。
――まあ、自分で決めることだ。
「お前は? 勉強、はかどってるか?」
「まあな」
インスはインスで、勉強に集中できずにいた。ジュミョンもインスと同じく料理の道に進むと決めてからは、遊ぶことばかり考えていた。
「何が、まあな、だよ。いい大学に行って、俺の無念を晴らしてくれ」
「ほざけ」
短い休み時間は、そうして笑っているうちに過ぎていった。
ポケットで振動を感じ、携帯電話を取り出した。見なくても、ジュミョンに決まっていた。
『インス。元気?』
ウニョンだった。あまりに久しぶりで、一瞬、頭の働きが止まった。
『元気だよ。そっちは?』
返事はなかった。いつもこうだった。何か月かぶりに突然連絡を寄こし、二言三言やり取りすると、また姿を消す。蜃気楼のような女だった。
「何してんだ。授業、遅れるぞ」
「ああ。行かないと」
「何だよ、誰から?」
「イ・ウニョン」
ジフンは顔をしかめた。
「今度は何だよ?」
「さあ。元気かって聞いてきたきり、返事ねえんだ」
「あいつ、いっつもそうだよな」
ウニョンは、ジフンとも同じ中学の同級生だった。そんな連絡の仕方が気に入らず、ジフンはとっくに縁を切っていた。
「生きてるか確かめてるだけだろ」
「変わりすぎだろ、あいつ」
変わったのはお前のほうだと言いたかったが、インスは口をつぐんだ。代わりに、一緒に笑ってやり過ごした。
ジフンは放課後に会おうと言い、廊下へ消えていった。教室に入ろうとした瞬間、握っていた携帯電話がまた震えた。
『彼女いないなら、私と付き合う?』
唐突なメールだった。中学時代の出来事や、いくつもの感情が、一瞬で頭をよぎった。真っ先に湧いてきたのは、不安だった。少しもうれしくなかった。インスは教室へ向けていた足を、トイレへ向け直した。
『どうした。何かあったのか?』
空いている個室に入り、便座に腰を下ろした。やはり、すぐに返事は来なかった。もう教室に戻ろうかと思ったところで、メールが届いた。
『嫌ならいいけど』
『そうじゃなくて。じゃあ、今週末に会わないか? 俺が行くから』
『春川まで来るの? すごく遠いよ』
『構わないよ』
それからは、テンポよく言葉が行き来した。週末のジュミョンとの約束は、何とか口実をつけて断ろうと考えた。
『じゃあ、春川の明洞に来て。一時ね』
インスは複雑な思いを抱えたまま、長いこと座っていた。
週末の東ソウル・バスターミナルは、大勢の人で混み合っていた。窓口で十時発の春川行きの切符を買い、しばらく待つと、乗るはずのバスがやってきた。運転手に切符を確認してもらい、席を探して座った。
――俺、何やってんだろう。
考えるほど、自分がおかしく思えた。高校生、それも三年生の自分に、ソウルと春川で遠距離恋愛などできるはずがなかった。ウニョンの性格も知っていた。ただ、言ってみただけなのだ。それなのに、磁石でもついているかのように、足は春川へ向かっていた。もしかしたら。その、もしかしたらという気持ちが、インスを春川へ向かわせていた。
噂どおり、春川の明洞は若者の街だった。中学生から高校生、大学生まで、赤いTシャツを着た人たちで、昼間から活気にあふれていた。時計塔の前は待ち合わせ場所なのか、大勢の人が携帯電話を覗いたり、ときどき電話をかけたりしながら、連れを待っていた。あっちもこっちも赤いTシャツばかりで、インスの服装のほうが、かえって浮いて見えた。
「インス。元気だった?」
カヨンだった。ウニョンからは、少し遅れるから先にカヨンと会っていてほしいと、メールが来ていた。
「カヨン、やあ。久しぶり」
カヨンも、同じ中学を出た友達だった。偶然なのか、二人とも同じような時期に春川へ引っ越していた。
「すげえ人だな」
「今日は準々決勝だもん。大騒ぎだよ。ソウルはもっとすごいでしょ?」
「まあな」
試合のある日は、人の集まる場所ならどこも熱狂の渦に包まれた。インスも友達も、高三だということを忘れ、その熱気に夢中になっていた時期だった。
「とりあえず、コーヒーでも飲もう。ついてきて」
カヨンは慣れた足取りで先に立ち、どこかへ向かった。明洞の中心街から少し離れると、静かなカフェがあった。
「ここ、いいでしょ? よく来るんだ。ウニョンはあと三十分くらいかかるって。来たらご飯食べよう」
席を取り、飲み物を一つずつ頼んだ。カヨンはブルーベリーシェイク、インスはカフェラテにした。ほどなく飲み物が届き、二人は積もる話を交わした。
「あのころは本当に小さくてかわいかったのに、ずいぶん背が伸びたね」
「中学のころと比べるなよ。もう二年以上経ってんだぞ」
久しぶりに会った友達は、変わらなかった。少しの間、中学時代に戻ったような気がした。けれど、それは振り払ってしまいたい記憶でもあった。
「彼女はいないの? うーん……」
カヨンはそう尋ね、インスの指をじっと見た。左手は黒く日焼けしていて、薬指には白い跡が残っていた。
「ああ……これか。別れたんだ」
「そっか。ウニョンも、この間ちょっとあってね」
だいたい、予想はしていた。それで、腹立ちまぎれに自分に連絡したのだろうか。疑いは、確信に変わった。
「ウニョンから、何か聞いてないか?」
「何を?」
「付き合おうってメールが来たんだ。ほとんど冗談みたいな感じで」
「え? いつ?」
「火曜日」
「ああ……」
その反応で察しがついた。おそらく、その日か月曜日あたり、あるいは前の週末に別れたのだろう。
「それで来たの?」
「本気で付き合おうって言ったわけじゃないのは、わかってるよ。ただ、何かあったのかと思ってさ。久しぶりに、こうして遊びにも来られるし」
「そっか……」
少し、沈黙が流れた。カヨンは時計を確認し、急いで言葉を続けた。
「忘れなよ。期待は……しないほうがいい」
「してねえよ。おかげで、こうして顔も見られたしな」
インスは笑って答えたが、心の中は違った。大学進学や春川での暮らしについて少し話していると、カフェの入り口に懐かしい顔が見えた。
「わあ! インス、いつぶり?」
春の勿忘草のような子だった。どこか危うく、手の届かない人のように遠く感じられた。変わったのは、伸びた髪だけだった。こうして顔を見ると、中学時代の記憶が次々と蘇った。
「お前も変わんねえな。会えてうれしいよ」
「うん。ここまで来てくれて、ありがと。ご飯食べに行こう。春川に来たなら、タッカルビでしょ」
タッカルビなら、ソウルでもいくらでも食べられた。それでもインスは、先を行く二人に黙ってついていった。




