第62話 短かった、あまりにも短かった(1)
2001年8月、18歳のジフン
ジフンはこのところ、すっかり笑わなくなっていた。ついこの前の週末、セハと南山に行ったときは、確かにこんなふうではなかった。それまで胸を焦がしてきた想いを、すべて注ぎ込もうとしていた。目を合わせ、セハの話す一字一句に耳を傾けた。手にあせもができるのではないかと思うほど、ずっと強く握っていた。セハの眼差しは、そんなジフンを一瞬一瞬、まるごと受け止めてくれた。そこには、ほんの少しの嘘も感じられなかった。
そんなセハからの返事が、急に短くなった。南山から帰った日は、電話にもメールにもまったく反応がなかった。もう風呂に入って寝てしまったのだろうか。たくさん歩いたから、それも無理はなかった。けれど、翌日も連絡がつかなかった。
『ジフン、ごめん。もうちょっとしたらメールするね』
それきりだった。そのまた翌日、もどかしさに耐えかねて電話をかけた。ただ淡々と流れる呼び出しのメロディーだけが、耳をくすぐった。告白した日には甘く聞こえた低い歌声が、今はジフンをからかっているようだった。塾にもセハは現れなかった。よほどのことがなければ休むはずがないと、早くから行って待っていたのに、とうとう姿を見せなかった。気持ちの乱れたジフンも授業を受ける気にはなれず、そのまま家に帰った。
――そんなはず、ない……。
心の片隅にとぐろを巻いていた蛇が、這い回っているようだった。その蛇は、疑いの壺に向かってゆっくりと跡を残していった。そんなはずはないと繰り返しながらも、腹の中をざらついた鱗であちこち引っかかれている気がした。何の罪もない携帯電話の黄色いひよこの飾りを、何度もいじっているうちに、また一日が過ぎた。
「うん。なんでこんなに連絡つかないんだよ?」
電話をかけようとしてはやめ、それを繰り返した末に携帯電話を放り出していた。まともに連絡がつかなかったのは三日。その三日は、十代の少年の心に火をつけるには十分だった。最初は心配だった。何かあったのではないかと、ジュミョンにもソヒョンにも電話をかけた。みんな、大したことはないはずだから心配するなと、ジフンをなだめてくれた。けれど、何も耳に入らなかった。
その次は疑いだった。疑いは、やがて怒りに変わっていた。何かあったなら、自分に真っ先に連絡をくれてもいいのではないか。どうにもできないまま時間が過ぎるうちに、ジフンの心は痩せ細り、しおれて干からび、ついには怒りが煮え立った。ようやく電話をかけてきたセハの声を聞いて、ほんの少しの間だけ、その怒りを鎮めることができた。
「ごめんね、ジフン。家でちょっといろいろあって」
三日ぶりに連絡がついたセハの言葉に、複雑な思いが押し寄せた。問い詰めたい自分と、何度も闘った。以前セハと話した、恋人に怒りをぶつけることや、言い争うことについての言葉が、肩を押さえつけてジフンを止めていた。
「そっか……大変なことがあったわけじゃないんだよね? 心配したよ」
「ごめんね。心配かけて」
セハの口調には、申し訳なさと味気なさが同居していた。そんな話し方を聞いても、ジフンはセハを信じたかった。何より、もう途方もなく大きくなってしまった自分の想いが傷つくのが怖かった。だから、無理にでも信じようとしていたのかもしれない。
「週末、会おうか。私から連絡するね」
長い間途絶えていた末につながった連絡にしては、あまりに中身がなかった。もう電話を切ろうとするセハに、ジフンも短く答えた。
「わかった」
なかなか寝つけなかった。疑いの壺には、もうあちこちにひびが入り、今にも崩れそうだった。蛇はジフンを睨みつけ、あざ笑っているようだった。
「くそっ!!!!」
枕に顔を埋めて叫んだ。やりきれなくなって、帽子だけを目深にかぶり、遊び場に向かった。深い闇に沈んだ明け方になっても、汗が流れ落ちるほど暑かった。一時は心地よくさえ感じた湿気にまで、苛立ちを覚えた。夜が明け、日差しがうなじを温めるまで、何本もタバコを吸った。家に戻っても、頭の中がぐちゃぐちゃなのは変わらなかった。頭をかき乱す雑念が、どうしても消えなかった。冷たいシャワーを浴びて戻ってきても、同じだった。
PCをつけ、うつろな目であてもなく時間をつぶしていると、ジュミョンから電話がかかってきた。
「ジフン、何してる? インスと遊んでるんだけど、あとでうちのほうに来ない?」
「うん」
時計を見ると、昼の十二時を過ぎていた。朝食を食べろと言う母親には、食欲がないと言って部屋のドアを閉めてしまっていた。日が高く昇ってから、そっと台所に行ってみるとチゲがあった。卵を焼き、適当に食事を用意した。家には誰もおらず、静かだった。砂を噛んでいるようだった。普段なら、あればあるだけ食べてしまうチゲなのに、何の味もしなかった。腹は減っていたが、結局半分も食べられず、食卓を片づけた。
ジュミョンの家に着いたのは、夕方近くだった。ジフンは無理に笑い、友達に挨拶をした。ジュミョンとインスは、何も知らなかった。セハとはどうだと聞かれても、まともに答えられなかった。それでも、そんな二人の様子に、どこかほっとした。
――そうだ。大したことじゃないはずだ。
しばらくはそうして、笑って話しながら過ごした。セハの話は、無理に受け流した。インスはそんなジフンを、怪訝そうに見始めた。
「お前、何かあったのか?」
十年以上の付き合いになる友達は、騙せなかった。微妙な表情の変化や口調に、気づかないはずがなかった。何でもないとしらを切っていると、ジュミョンの携帯電話が鳴った。
「あ、セハだ」
メールを確認するジュミョンを見て、ジフンはそっと自分の携帯電話を取り出した。メールは一通も来ていなかった。ジュミョンは笑いながら、携帯電話のボタンを押した。メールをやり取りしているようだった。沈黙が流れた。やがて携帯電話を置いたジュミョンは、もう笑っていなかった。
「ジフン……」
「うん?」
「セハが、メール送ったから見てほしいって」
これだったのか。
こういう形で、来るものだったのか。
インスがジュミョンに、何があったのかと目で尋ねた。ジュミョンは首を振り、リビングに置かれたPCを指さしてジフンを促した。電源ボタンを押すと、すぐに起動する音がした。何度かクリックするだけで、メールボックスにたどり着いた。
『ジフンへ』
短い件名のメールがあった。マウスを握る指先が震えた。三度目の試みで、ようやくその短い件名をクリックできた。
『ジフン。
どうしても直接は言えなくて、こうしてメールを送るね。
私、すごく卑怯だね。ごめん。
ジフンは、私に本当によくしてくれる、いい彼氏だった。
その気持ちが全部伝わってきたよ。本当にありがとう。
だから、なおさら申し訳なくて。
私。
前の彼氏のところに戻らなきゃいけないと思う。
ジフンはいい子だよ。私よりずっといい人に出会えるはず。
許してほしいとは言わない。
元気でいてくれることを、心から願ってる』
別れのメールは、短く、淡々としていた。謝罪や感謝の言葉もあったが、あまりに味気なかった。セハのように感情豊かな子から届いたメールとは、信じられないほどだった。一睡もしておらず、ふらついていた頭が、不思議なくらい静かになった。嵐が起こる前の、凪いだ空を見ているようだった。
初めから終わりまで、何度も読み返した。わずかな文字が、刃となって心に突き刺さった。ジフンはジュミョンを振り返った。インスと二人、息を潜め、何も言わずにいた。そんな友達の姿を見ると、笑いがこみ上げた。
「俺、どうしたらいい?」
口元は笑っていたが、混乱する心はそのまま伝わった。インスとジュミョンがため息をついた。
「何だって?」
インスが無表情で尋ねた。
「別れようって」
ジフンも無表情になって答えた。ジュミョンは泣きそうな顔をしていたが、できるだけ落ち着いた声で聞いた。
「なんで急に? うまくいってたんじゃなかったの?」
「今週に入ってから、連絡つかなくなってた」
ジュミョンは考え込みながら、酒の入ったグラスを持ち上げた。そしてジフンにも一杯注いだ。
「家の前で、待ってみる」
ジフンは酒を一気に飲み干し、立ち上がった。止めようとしたのか、ジュミョンも立ち上がり、ジフンの腕をつかんだ。けれど、腕から震えが伝わり、止めることができなかった。氷点下の寒波の中へ裸で放り出されたように、肩まで震えていた。
「うん。会いに行って」
ジュミョンはジフンの腕を、ぎゅっとつかんだ。
「家の前で待ってみて。後悔は残さないで」
ジフンは笑って頷いた。インスの顔を見たら涙があふれそうで、できるだけ目をそらした。インスもそんなジフンの気持ちがわかるのか、顔を背けていた。




