第6話 こんなにいい夜(3)
いつも行くカラオケ店に着くと、ジフンは千ウォン札を三枚差し出した。
「だめ、私が誘ったんだから、私が払う!」
セハはジフンの手を押しのけ、財布からお金を出してカウンターの店主に渡した。店主はふっと笑って受け取った。
「いや……それもよくないっていうか……だから……じゃあ、飲み物は俺に買わせて」
「いいよ! 飲み物はお水がいいな。店長さん、サービスで時間いっぱいおまけしてね!」
セハの明るい声が響いた。あまりに澄んだ声だったので、店主も当たり前のようにうなずいた。そして冷蔵庫から水を出し、お金も取らずに渡してくれた。友達としょっちゅう来ている店だった。学生料金で三千ウォンしかしないうえに、三十分もおまけしてくれる。ジフンは困ったような顔でリモコンをいじりながら、楽しそうに歌うセハと画面を交互に見た。
ここは、歌うセハの顔をずっと眺めていられる、合法的な空間なのだ。そう思うと、カラオケという場所に感謝したくなった。最初にカラオケを作った人も、好きな人が歌う顔をいつまでも眺めながら、満ち足りた気分になったのだろうか。
「ジフン! どうして歌わないの?」
五曲続けて歌い、何かを吐き出せたのか、セハの顔はぐっと軽やかになっていた。
「ああ……俺、実は歌が下手なんだ。音痴で。みんなに歌うなって言われた」
セハはそれを聞くと、また吹き出した。笑い声がマイクにまで入って響いた。
「ひどいね、みんな。ジフン、歌がうまくなきゃいけないのは歌手でしょ。大丈夫だから、早く歌ってみて」
ジフンはため息をついた。どうせ一時間半、逃げきれるわけがない。友達にも、これならまだましだと言ってもらえた、好きな曲を予約した。
……こんな夜には、あなたをこの胸にしっかりと抱きしめて……
好きな子の前で歌うのは初めてだった。音程に気をつけながら、横目でセハを見た。セハは次の曲を探す手を止め、画面の歌詞を見ながら、ジフンの歌を最初から最後まで聴いてくれていた。
「もう、馬鹿だなあ。これなら……うーん、すごくいいってわけじゃないけど、そんなに悪くもないよ。自信持ちなって」
歌い終わると、セハが励ましてくれた。
「つまり、よくはないってことだよね」
おどおどするジフンがおかしくて、セハの口元がほころんだ。
「違うって! よかったって言ってるの! いいよ、その調子!」
二人は一時間半をめいっぱい使って歌った。ジフンは歌を聴くにも歌うにも、かなり感情を重ねるほうだった。セハもそうなのだろうか。
お金に余裕のない高校生の間では、一番だけ歌って止めるのが暗黙のルールだった。二人は次から次へと歌った。セハが選ぶ曲の一つ一つに、特別な意味があると考えるのは無理があった。ただ、一曲だけ、座り直して歌い出す姿と、すすり泣くような節回し、今にも泣きそうな目が気になった。ジフンはその考えを振り払おうとしながら、歌を聴いた。
……最初に戻れることを願うよ……
胸の片隅にしまい込んだセハの気持ちを、のぞいているような悲しい歌だった。歌は歌だと、あれこれ考えないように努めた。曲を予約してはまた予約するうちに、いつの間にか終わりの時間が近づいていた。
「ああ、終わっちゃった」
「ほんとだ。カラオケって、時間が過ぎるの早いよね。学校だと、時間がなかなか過ぎないのに」
名残惜しそうなジフンに、セハは笑って鞄を取って渡した。
「私、もう行かなきゃ。ジフン、今日はありがとう。すごく楽しかった」
ただ一時間半、一緒にカラオケにいただけなのに、そんなお礼を言ってもらっていいのだろうか。ほんの少しだけ、もう一歩踏み出そうと決めて答えた。
「これくらい、どうってことないよ。いつでも言って。カラオケくらいなら、行きたいときにいつでも付き合うから」
「へえ。彼女ができたらどうするの?」
「彼女って。まだ生まれてるかどうかもわかんないよ」
時々、まだいもしない未来の彼女の話をされるのが、どうにも気になった。それがセハだったらいいのに、という言葉は、まだ深いところに埋まっていた。今は、口にする勇気さえなかった。
「言ったでしょ。近いうちにできそうだって。私が保証する」
ジフンの気持ちを知るはずもない。それでも、うれしくなるようなことを言ってくれる。そんなところに、セハという人が表れているようだった。
「もう遅いし、家まで送るよ」
セハは足を止めた。ミラーボールのきらめく国から、一瞬で現実へ引き戻されたようだった。
「ううん、大丈夫。一人で帰れるよ。心配しないで。いつも、もっと遅い時間にバスで帰ってるんだから」
一緒にバスに乗って、家の近くの停留所まで行く。それだけのことを、こんなに必死に止められるなんて、やっぱり何か間違えたのだろうか。こういうときは家まで送るのがマナーだと読んだ気がしたが、やはり雑誌をそのまま信じてはいけないらしい。
「そっか、わかった。で、俺は何するんだったっけ……あ!」
慌てて鞄を探り、携帯電話を取り出した。インスとジュミョンから交互に、十件以上も着信があった。メールは物騒な殺害予告で埋まっていた。それを見せると、セハは大変だとジフンの背中を押した。
「早く行きなよ。二人とも怒ってるみたい。私はあそこの停留所からバスに乗ればいいから」
「うん、わかった。気をつけてね。また今度。連絡して。俺の番号、知ってたっけ?」
友達のところへ戻れば、何発か殴られそうだった。それでも気持ちは急がなかった。むしろ、二度と戻ってこないようなこの時間と場所が、ほどけていくようで、胸がどきどきした。
セハが開いた携帯電話に、自分の番号を打ち込んだ。
「連絡するね。またみんなで会おう」
ジフンは名残惜しさを隠して手を振り、停留所へ向かうセハの後ろ姿を見つめた。
「あ、あのさ」
「うん?」
言いたいことはたくさんあったが、最後のひと言を慎重に選んだ。
「どうして、すぐ彼女ができそうって言ったの?」
セハはこちらに向き直り、小さな体をぴんと伸ばすと、当たり前のことのように言った。
「かっこいいじゃん。それに、今日話してみてわかった。ジフンって、本当にいい子だと思う」
金槌で殴られたような顔のまま、ジフンは止まりかけた手を振り続けた。
セハも振り返りながら、手を振った。
セハがすっかり見えなくなり、しばらく経ってから、ようやく我に返った。ジフンは向きを変え、ゆっくりと歩き出した。
「いい子。いい子……いい響きだな。いい子」
足取りはだんだん速くなり、いつの間にか息を切らし、舌まで出して、路地を夢中で駆けていた。インスがどこにいるのかも知らなかったが、とにかく走りながら電話をかけた。
「おい、このクソ野郎! いったいどこに――」
「おい! おい! 俺、はあっ、いい子? はあ、はあっ!」
インスは、こいつ、その間にどこかで一人で酒でも飲んだのか、と言いたげな顔で、いったん電話を耳から離し、ジュミョンを見た。
「いい子なわけねえだろ、馬鹿野郎! 連絡もつかねえし、人をこんなに待たせ――」
「そんなこと、はあっ、ないだろ、馬鹿! 俺はいい子なんだよ!」
インスは電話を切った。
「あいつ、頭おかしい。またどっかで一人で酒飲んでやがる」
みんなのところへ向かう途中で、チョンウォンは猛然と走るジフンを見かけ、そのことを友達に話した。百メートル走の選手みたいな走り方だったから、もし酒を飲んでいたなら、本当に死ぬかもしれない、と。




