第5話 こんなにいい夜(2)
言葉にしがたい感情が湧いた。心臓を取り出し、波にさらわれるように砂浜に放り出したら、こんな気分になるのだろうか。彼氏がいないことへの喜びと安堵。セハの顔に浮かぶ寂しさへの心配。それが一度に押し寄せてきた。
「え? なんで? ずいぶん長く付き合ってたんじゃなかった?」
一文字ずつ、慎重に書きつけるように話した。自分の感情が喜びなのか、心配なのか、悟られるのが怖かった。どちらが先に飛び出すかは、自分でもわからなかった。
「よく喧嘩してたなって。なんで喧嘩してるのかもわからないまま、喧嘩することってあるじゃん」
「そっか……俺にはよくわかんないな。彼女がいるわけじゃないし。そういえば、インスとジュミョンもしょっちゅう喧嘩してるみたいだけど。好きなのに、なんで喧嘩するんだろうね」
何気なく口にしたジフンの言葉が痛かったのか、セハはつぶやくように答えた。
「ほんとだよね。好きなのに、あんなに喧嘩しちゃうんだよね」
――俺がそいつだったら、絶対に喧嘩なんかしないのに。
ジフンは心の中でつぶやいた。
「そういえば、ジフンは彼女いないの? 好きな人は?」
セハの目を見た。好かれているとは夢にも思っていない様子で、ただ好奇心だけが浮かんでいた。
「いないよ。そういうの」
「ええ、見た目だって悪くないのに。こうして見ると、すぐできそうだけどな。女の子ともよく遊んでるでしょ」
ジフンは指でテーブルをとんとんと叩き、少し考えた。
「これ、聴いてみて」
そしてテープを入れ替え、さりげなくセハの目の前にイヤホンを差し出した。
「音楽?」
「うん。気持ちがごちゃごちゃしてるとき、音楽を聴くと落ち着くじゃん。ちょうど、そういうテープがあるんだ」
セハは片方を受け取り、右の耳に入れた。ウォークマンを間に置いて、一つのイヤホンを分け合った。胸が高鳴るような状況だったが、それよりも今は、セハの心が落ち着いてくれればと思った。テープを早回しして、曲の頭を探した。A面の一曲目なので、すぐに見つかった。
愛が自分にとってどんな意味を持つのかを語り、どうかその愛を返してほしいと切々と訴える歌詞だった。セハの元彼が戻ってくることを願ったわけではない。フレディ・マーキュリーの声には、人を癒やす奇跡が宿っていた。そして、この時間が終わらないようにと祈った。
……Because you don’t know What it means to me……
セハの目に涙が浮かんだようだった。窓の外の、遠いどこかを見つめ、歌に聴き入っていた。
「歌詞、きれいだね……」
ジフンは目を丸くして尋ねた。
「聴いただけで、意味がわかるの?」
そんなところで驚くんだ、と思うと、セハはまた吹き出した。
声を上げて笑いながらも涙をためているセハの目から、ジフンは視線をそらした。
「でも、洋楽ばっかり聴くの? このテープ、全部洋楽みたいだけど」
音楽に聴き入りながら、セハはささやくように尋ねた。
「ああ、これは道端でリヤカー出してるおじさんから買ったミックステープ。有名な曲をごちゃ混ぜに録音して売ってるんだ。韓国の曲も、もちろんいっぱい聴くよ」
「どんなの?」
セハは大きな目を輝かせて尋ねた。
「いろいろ聴くけど……テープをいちいち買うわけにもいかないから。このウォークマンを見ればおわかりでしょうが、どうしても昔の曲が多くなるんだよね」
「私も昔の曲、好きだよ。どんなのが好き?」
「TOYも好きだし……キム・ジャンフン、N.EX.T……THE THE」
ジフンはセハの表情をちらりとうかがい、家にあるテープを必死に思い出した。男女は好みが似ているほうがいいと、どこかの雑誌で読んだ気がした。
「えっと……パニック。オンニネイバルグァンとか……チョンラムフェ」
セハの目が、ますます輝いていくのを感じた。
「わあ、いいの聴いてるね!」
これまでに交わしたどの会話よりも、二人の重なり合うところで、少しずつ手を取り合っていくような気がした。
「うう……こういう質問、実はすごく苦手なんだ。好きな歌手とか曲って、多すぎてかえって出てこなくなるっていうか。一つだけ挙げたら、ほかのに悪い気がするし」
セハはいつもの、眉間をきゅっと寄せる笑い方で言った。
「ごめん、えへへ。困らせちゃったね」
謝ることではなかったが、今この瞬間にも次々と浮かぶ歌手やバンドのうち、どれを口にすればいいのか。選ぶだけで頭がパンクしそうだった。
「ユ・ジェハ。ユ・ジェハは好きじゃない?」
「おお……ユ・ジェハか。あんなに若くして亡くなった、悲運の天才だよね。テープも家にあるよ」
セハは、自分の好きな歌手やバンドの名前がジフンの口から出るたびに、新鮮な驚きを覚えていた。中でも、ユ・ジェハのよさをわかってくれることが、いちばんうれしいようだった。
「そうだよね。あのアルバム、本当に捨て曲が一つもないくらい好き」
「うん。早くに亡くなったから過大評価されてるだけだとか言うやつもいるけど、俺、そういうやつとは口もききたくないな」
急に別人のように熱く語り出したジフンを、セハは楽しそうに見ていた。それから、まるで自分が悪く言われたかのように顔をしかめて尋ねた。
「そんなこと言う人がいるの?」
「あ……実際に会ったことはないけど。パソコン通信で……」
「へえ、ジフンもパソコン通信やってるんだ。でも、会ったこともない人と、どうやって口をきかないようにするの?」
「それはさ、そういう気持ちで生きてくってことだよ!」
音楽の話ができる友達が見つかってうれしいのか、セハはイヤホンを外し、話し続けるジフンを笑顔で見つめた。ラジオのユ・ジェハ特集を聴いておいて、本当によかったと思った。
「ねえ、カラオケ行こうよ!」
ジフンの熱弁が冷める気配はなかったが、わずかに途切れた隙に、セハが不意打ちのように言った。
「え……え? カラオケ? 二人で? 塾は?」
「そう、二人で。歌いたくなっちゃった。塾はさぼっちゃう。一日くらい」
戸惑いながら、ジフンは立ち上がった。自分のせいで塾を休ませるようで、なんとなく申し訳ない気がした。
「塾、休んでもいいの?」
セハはジフンを見上げ、少し口をとがらせた。
「いいわけないでしょ、馬鹿。……っていうか、なんでそんなに背が高いの?」
「よくないなら、やっぱりだめなんじゃ……いや……背は、俺もわかんない。急に伸びちゃって」
セハは身長が百六十センチにも満たない、小柄な子だった。ずいぶん見上げなければ、目が合わなかった。自分が大きくなりすぎたのか、セハが小さいのか、ジフンにはよくわからなかった。
「立ってるところ、見たことなかったっけ?」
「あると思うけど。こうして隣に立つのは、初めてなのかも」
塾とは反対の方向へ、どんどん歩いていくセハが気になった。もうすぐ来るはずのインスとジュミョンのことは、すっかり忘れていた。




