第4話 こんなにいい夜(1)
2001年4月、18歳のジフン
何でもいいから、返事をしたかった。せめて挨拶くらいはするべきだった。
「あ……えっと……」
言葉を探しているうちに、セハはもう向かいに座っていた。
「どうしたの? 私に会えてうれしくない? もしかして私、行ったほうがいい?」
邪魔しちゃったかなと思ったのか、セハは様子をうかがうようにあたりを見回した。ジフンはようやくイヤホンを外し、ぽとりと落として答えた。
「違う、違う。なんで行くの? そりゃうれしいよ。うん、だから、うれしすぎて一瞬言葉が出なかったんだよ」
セハが言い終わらないうちから矢継ぎ早に答えたジフンは、これなら上出来だと自分を褒めた。
――うまく答えた。急だったけど、自然だったじゃん。
セハは笑って座り直し、尋ねた。
「ここで何してるの? 一人だった?」
「インスを待ってるんだ。ジュミョンと会ってから来るって」
セハの目に、羨ましそうな色が浮かんだ。
「今日もみんなで遊ぶんだ。楽しそう」
ジフンは次の言葉が続かず、ためらった。一緒に遊ぼうと言いたかったが、どうしても口に出せなかった。
「その……セハは、どうしてここに――」
沈黙のあと、どうにか口にした言葉に重なって、セハが先に尋ねた。
「本読んでたんだ。何読んでるの?」
話をうまくつなげられない自分が恥ずかしかった。その一方で、沈黙が長引かないように話しかけてくれるセハがありがたかった。
「これ? ヘミングウェイの本。『武器よさらば』」
「あ、『老人と海』!」
セハはハンバーガーを大きくひと口かじり、笑って答えた。
「そうそう。よく知ってるね」
「国語の授業で出てくるじゃん」
そういえば、ジフンも教科書に載っていた『老人と海』で初めてヘミングウェイを知ったのだった。
「そっか。『老人と海』以外にも面白い本がいろいろあるみたい。これもまだ読んでる途中だけど、作者本人が嵐みたいな人生を送ってたからか、すらすら読めるんだよね。晩年には自殺してるし。そういうことを知ると、『老人と海』もちょっと違って読めるんだ」
「へえ」
初めて聞く話に目を輝かせながら、セハはハンバーガーとポテトを交互に食べた。それからトレーをこちらに押し出して、ポテトを一緒に食べようと勧めてくれた。
「ジフンって、話すの上手だったんだね。文学少年だからかな」
「文学少年って……はは。ただの暇つぶしだよ」
「暇つぶしに本を読む子は、文学少年って呼んでいいと思うけど」
文学少年。それは、セハが初めて自分につけてくれた、固有名詞のようだった。ありふれた言葉なのに、ほかの誰かが口にするのとは違う重みがあった。
――文学少年……。
ジフンは心の中で、その言葉を何度も噛みしめた。
「そうだ、話の途中でごめんね。さっき何か言いかけたよね?」
「ああ、ヤンジェにはどうして来たの? 学校も塾もこっちじゃないよね」
初めの緊張は、いつの間にか薄れていた。二人きりになるのは初めてなのに、居心地がよかった。
「理科だけ、こっちの塾なんだ。まだ時間があるから、夕飯食べてから行こうと思って」
セハは塾のあるほうを指さして言った。
「勉強頑張ってるんだね。かっこいいな」
「そう? 仕方なくやってるところもあるよ。ジフンは勉強しないの?」
「試験前はするよ。たぶん」
セハはハンバーガーを頬張ったまま、小さな口を手で覆い、くすくす笑いながら言った。
「たぶんって。ジフンもちゃんとやりなよ!」
勉強しろなんて、久しぶりに言われた気がした。兄がソウルの都心にある名の通った大学へ進み、それで念願がかなったのか、両親はジフンに勉強のことでうるさく言うことがなかった。唯一、小言を言ってくれていた兄も、『自分で。うまくやれ。』と短いメモを残して兵役に就いてしまった。除隊してからも大学生活が忙しいのか、勉強の話はしなかった。
「やらなきゃとは思うんだけど、どうもぼんやりしてるんだよね。何をすればいいのか。どうすればいいのか。なんでするのか」
「なんでするのか?」
勉強する理由を探すジフンを、不思議そうに見て、セハは答えた。
「そうだね。そう言われると、理由なんて考えたことなかったかも。あえて言うなら、いい大学に行くためじゃない?」
「それだけじゃ足りないみたい。俺、馬鹿だから」
いつの間にかハンバーガーを食べ終えていたセハは、空の包み紙を置き、少し考え込んだ。
「理由が見つかったら、もっと頑張れるのかな」
「セハは今だってちゃんとできてるじゃん。今までどおりやればいいんだよ」
セハは目を細めて笑い、ありがとうと答えた。
「あ、そうだ。もう一つ、お礼言わなきゃ。この前は目薬ありがとう」
「ああ……あれね」
ジフンはまた言葉を探し、外したイヤホンをいじった。慌てて外したままだったので、小さな音で音楽が流れ続けていた。
「あれ、実はジュミョンに買えって言われて……」
「ジュミョンが? だったら自分で買えばいいのに」
「ほんとだよね」
まだ気持ちを知られたくなかった。セハが何度も目を気にしているのを見て、ジュミョンとその話をしていたら、目薬を買ってあげれば喜ぶんじゃないかと言われた。それで買ったのだが、ひとまずそう言ってごまかした。
「もう、目は痛くないんだ」
「へえ、本当? あの目薬、やっぱり効くんだね」
セハは何かを思い出し、考え込んだ。そしてすぐに、そうだねと話を合わせた。
「でも、目薬はちゃんと使ってるよ。ありがとう!」
ジフンは、イヤホンからまだ音楽が流れていることに気づいた。ごそごそと鞄からウォークマンを取り出して停止ボタンを押し、イヤホンのコードを巻いた。
「わあ、ウォークマンだ。久しぶりに見た、それ」
「うん、ちょっと時代遅れだよね。兄貴のお下がりなんだ。俺、勉強するほうじゃないから、家でもこういうのはそう簡単に買ってくれないし。新しいのが出るたびに買える余裕があるのかもわかんないけど」
セハは自分のMP3プレーヤーを見せようと取り出しかけ、そっと鞄の奥に戻した。
その心遣いが、いとおしかった。
「今はいい機械もいろいろあるけど、俺はまだ、このテープが回る音が好きなんだよね。おっかあに、黙って使えって言われてるからってだけじゃないよ」
「おっかあ? お母さんのこと、おっかあって呼ぶの?」
セハは店中に響きそうなほど笑った。いつもの調子で何気なく口にしただけだったが、セハを笑わせられたのがうれしかった。聞いているだけで気分がよくなる笑い声だった。ずっとこうして笑わせていたくなるような。
「ジフンって、すごく面白いね」
「今日はセハに、初めて言われることばっかりだな」
ジフンは、お笑い担当という柄ではなかった。この会話の力を、あらためて強く感じた。
「あのさ、彼氏とは会わないの? 毎日塾に行ってたら、会う時間もなさそうだね」
心の奥に押し込めていた存在について、初めて話を振った。セハはほかの友達の前で彼氏の話をあれこれする子ではなかったので、詳しいことは何も知らなかった。
「ああ、彼氏ね」
セハはまばたきをした。ほんの一瞬、顔を曇らせたように見えたが、また笑って続けた。
「別れたの、私」




