第2話 セハ (2)
湧き上がる後ろ向きな気持ちを、精いっぱい押さえ込んだ。会ったら、また笑ってあげよう。
セハはこれを「笑顔の仮面」と呼んでいた。
今は「勉強する仮面」をかぶる時間だった。
塾に入る前にキンパの店に寄った。口いっぱいに頬張り、痛む目をぎゅっと閉じて、もぐもぐと噛んだ。
塾が終わって携帯電話の電源を入れると、公園で待っているというメールが届いていた。ためらわず、まっすぐ公園へ向かうのは、もちろん好きだからだった。もしかしたら、ほかの理由でガンウンと別れられないのではないか。そんな思いを見透かされそうで、塾から公園までの二、三分の間に、「笑顔の仮面」を用意した。
「ガンウン!」
ガンウンは公園の一角にバイクを停め、タバコの煙を吐いていた。セハは手を振り、足を速めた。ガンウンは一度こちらを見ると、指でタバコの火を弾き落として消し、両腕を広げて迎えてくれた。
「塾、ちゃんと行ってきた?」
「うん。会いたかった」
セハはガンウンの胸に顔を埋め、大きく息を吸い込んだ。ずっと嗅いできた、馴染みのある服の匂い。かすかに染みついたタバコの匂いさえ、気持ちを和らげてくれた。
「笑顔の仮面」は完璧だった。自分の感情さえわからなくなるほど、よくできていた。本当に自然と笑顔になっているのか、仮面のおかげで自分まで騙せているのか、セハにはわからなかった。会いたいと言えば、いつでもバイクのエンジンをかけて来てくれるガンウンが好きなのは、本当だった。二人の間から喧嘩がなくなれば、仮面の存在など忘れていたに違いなかった。
「今日も乗らない? 家まで送るよ」
「笑顔の仮面」に、一瞬ひびが入った。
バイクの後ろに乗るか乗らないかでは、覚えているだけでも十回は喧嘩した気がした。ガンウンはその気配を察したように顔をこわばらせたが、すぐに明るく笑って、セハの肩に腕を回した。
「わかった。ただ聞いてみただけだよ。コンビニで飲み物買ってこよう」
二人は飲み物を選んだ。ガンウンは何も聞かずにチョコ牛乳を手に取って言った。
「これだろ?」
好みをわかってくれているガンウンの腕に、セハは腕を絡めた。
「そっちは……今日はサイダー?」
「いや、俺のはバイクにある」
仮面のひびが深くなった。
バイクを停めた公園に戻る間、セハはひと言も話さなかった。もう、声の震えだけでも互いの感情がわかるようになっていたから、気分を悟られないように口数を抑えた。けれど、黙ってこうして歩くだけでも、気持ちは十分に伝わっていた。
ガンウンはため息をついた。
「またどうしたんだよ?」
二人の間に、重たい空気が降りてきた。ほんの五分前まで、馴染み深く心地よかった匂いが、急にむっと鼻についた。
「ほんと。私、どうしてまたこうなるんだろう」
セハは怒りたくなかった。ガンウンのこういう行動は、今に始まったことではなかった。予想はつく。それでも、こうして目の当たりにすると、何でもないように流すことはできなかった。
「ビール一本だよ。いちいち怒るようなことじゃないだろ。今すぐ運転するわけでもないし」
短い三つの文だったが、声は少しずつ大きくなった。初めて喧嘩した日、怒鳴り散らし、翌日には平身低頭で謝ったガンウンは、今ではためらいもなく声を荒らげた。
「わかってる。何かしようってわけじゃない。ただ、知りたいの。どうして私は、ガンウンのすることにいちいち腹が立つんだろう。こうやって苛立って、眉間にしわを寄せてるのが、もともとの私の顔だったのかなって思う」
怒らず、淡々と話すセハの声に、ガンウンは申し訳なさそうな顔をした。
「飲まないよ。俺は、笑ってるお前の顔が好きなんだって」
ガンウンは「ほら笑って」と言うように、おどけて笑ってみせた。気持ちが少し落ち着いたセハも、つられて笑った。
「あはは。何、その顔」
二人は公園のベンチに座り、話をした。セハはポケットからMP3プレーヤーを取り出し、イヤホンのコードを巻いた。鞄にしまおうとしたところで、ガンウンがそれを手に取って眺め、片方のイヤホンを耳に入れた。もう片方をセハに差し出した。
「何? 音楽聴くの?」
「うん。最近、何聴いてるのかなって」
音楽が流れ始めたが、ガンウンがずっと話しているので、音楽も会話もよく聞き取れなかった。
「うん。うん、そうだね」
笑いながら相槌を打っていたが、何を言っているのか、正確にはわかっていなかった。
セハは一つ、選ばなくてはならなかった。
ガンウンの言葉と、音楽。
どちらに耳を傾けるのかを。
……昨日は、去っていったあなたを忘れられない自分が嫌でした……
セハは無意識に、音楽に合わせて口ずさんだ。ガンウンは話をやめ、セハの耳からイヤホンを抜いて尋ねた。
「俺の話、聞いてる?」
セハはきまりが悪くなって、顔を赤くした。
「あ、ごめん。最近ずっと聴いてる曲だから。ちょっと気を取られちゃった」
ガンウンはプレーヤーの電源を切り、セハに返した。
「謝ることないよ。それにしても、こんな古臭い曲聴いてるんだな」
セハは苦笑した。重く痛む目をこすり、イヤホンをまとめる間もなく、プレーヤーを鞄に押し込んで立ち上がった。
「もう帰らないと。お母さんが待ってると思う。気をつけて帰ってね」
二人は軽く抱き合い、キスをして別れた。バイクにまたがり、エンジンをかけて去っていくガンウンの後ろ姿を見送りながら、携帯電話を取り出し、短縮ダイヤルの二番を長く押した。
「セハ! どこぉ?」
舌の回らないジュミョンの声が聞こえた。
「そっちに行きたい! どこに行けばいい? お母さんには、ジュミョンと自習室で勉強してから帰るって言うから、電話来たらうまく話を合わせてね」
大きな公園の片隅に、おしゃべりの声をたどっていくと、みんなすでにほどよく酔っていた。久しぶりに会うジュミョンの友達や、彼氏のインス、そしてインスの友達に、一人ずつ挨拶した。
「インス! 最近、二人とも仲よくやってるね。見ててうれしくなる」
「デヒョン、チョンウォン、こんばんは」
「ジフンもいる! こんばんは」
ジフンはもじもじと何か言いかけてやめ、挨拶を返した。チョンウォンが、こっちに座れと手招きしながら言った。
「でも、ジュミョンと自習室に行くって言って、お母さん信じるの? こいつ、どんなところかも知らないだろ」
「ちょっと! 私だって行ったことあるからね?」
楽しげな笑い声が、木々の間に響いた。セハも涙が出るほど笑った。
「私にも一杯くれる?」
紙コップを差し出すセハを見て、友達はみんな意外そうな顔をした。首を振って止めようとする子もいた。
「飲んだら酒の匂いするよ。帰ったときにばれたらどうするの?」
「お母さん、自習室に行くって言うと十時には寝るの。十一時に私が帰ってきた音がしても、見に出てきたりしないよ」
「門限あるって言ってなかった? 帰ってくるまで待ってて、厳しく言われるわけじゃないんだね」
ジフンは紙コップに焼酎とビールを混ぜて注ぎながら、そう尋ねた。
「うん、そう。ジフンって、よく覚えてるんだね」
「あ……まあね」
ジフンは、たまに会っても、目を合わせて話すのが得意な子ではなかった。前に一度会ったときも、
「覚えてるよ。カンナム駅でちょっと会ったよね? ジフン、だったっけ?」
と親しげに挨拶したのに、どこかぶっきらぼうに「そう」と答えただけだった。無愛想に見えても、ほかの子より純粋なところが感じられた。話すのが苦手なだけなのだろうと思った。セハは隣に座ったデヒョンと、いろんな話をした。男の子の中でそれなりに勉強しているのはデヒョンだけで、話題もいちばん多かった。みんながそれぞれに話をしている、その騒がしさの中で、ジュミョンがジフンの脇腹を何度もつついていることには気づかなかった。ジフンは諦めたような顔で鞄を探り、何かをセハの目の前に差し出した。
「これ、受け取って」
突然目の前に出されたものが何なのか、すぐにはわからなかった。
「ほら、この前。いつも目が痛いって言ってたじゃん。目がすっとする目薬」
そういえば、とセハは気づいた。さっきから、嘘のように目が痛くなかった。




