第57話 真っ白な街(2)
しっかり夕食を食べ、ジフンはゲストハウスへ戻った。一階は、昼はカフェ、夜はこぢんまりしたバーになっていた。旅の初日をこのまま終えるのは惜しくて、カウンターの椅子に座り、メニューを開いた。
「あ、これ」
スタッフは、ジフンの指さしたところに目をやった。
「オタル・ビア?」
「オーケー。ワン・ボトル、プリーズ」
ほどなく、小さな瓶ビールが目の前に置かれた。味は普通に思えたが、異国で飲んでいるだけで、十分に楽しかった。
もう一度ウォークマンを取り出そうとして、バーに静かに流れる音楽を聴くことにした。客はそれほど多くなく、手の空いているらしいスタッフが近づき、英語で話しかけてきた。
「旅の初日は、どうでした?」
思いがけず話しかけられ、急いで口から瓶を離した。ジフンは親指を立てて答えた。
「すごくよかったです。思ったほど寒くもなくて」
「そうでしょう? 楽しめたなら、よかったです」
その笑顔は、札幌じゅうの雪を溶かしてしまいそうなほど温かかった。
「でも、明日行くところは、もっと楽しみにしてるんです」
「明日? どこに行くんですか?」
ジフンは、ビール瓶を少し持ち上げて答えた。
「小樽に行きます」
「ああ! 小樽」
スタッフは、自分が小樽の出身だと教えてくれた。一度も訪れたことのない小さな街の出身だというだけで、こんなにも親しみが湧いた。口下手なジフンも、堰を切ったようにあれこれ話した。
「映画の『Love Letter』、知ってますよね?」
「『Love Letter』?」
彼女は首をかしげた。十代のころから、とりわけ心に残り、大切にしてきた日本映画を、日本人が知らないなんて、悲しくなりそうだった。
「岩井俊二の映画なんですけど」
「岩井俊二は知ってます」
なのに、『Love Letter』を知らないとは。日本人として職務怠慢じゃないかと思い、熱心に映画の説明をした。あまりに熱く語るものだから、彼女はスマートフォンで検索までして、画面を見せてくれた。
「この映画ですよね? 必ず見ます」
ジフンは気恥ずかしくなり、照れ笑いを返した。
「『Love Letter』の撮影地の一つが、小樽だそうなんです。それで、小樽に行ってみたくて、今回の旅行に来たんです」
彼女は初めて知ったことに感心し、興味を示した。自分の生まれ育った街が舞台なのだから、もっともだった。
彼女との会話は、そこで終わった。オーストラリアから来た三人の旅行客がバーを占領して騒ぎ始め、そちらの応対で忙しくなったからだった。夜が更けるにつれ、ますます騒がしくなり、ついにはジフンにまで酒を勧めてきた。ジフンは、タダ酒を断らずに飲んだ。あまりににぎやかな人たちで、親しくなったら、いつまで飲むことになるかわからず、英語がわからないふりをした。少しタバコを吸おうと外へ出ると、雪が文字どおり降りしきっていた。街灯だけが頼りの暗い路地は、目の前さえ見えないほどの雪で埋め尽くされていた。
「うわ……すごいな。明日、列車は動くのか?」
落ち着かない夜だった。よりによって、酔っ払ったオーストラリア人三人と同じ部屋だった。三人は、長いこと騒ぎながらシャワールームを行き来し、ようやく眠ったかと思うと、一晩中いびきをかいた。いびきに寝返りを繰り返し、どうにか眠っても、長くは続かなかった。ジフンは、それならタバコでも吸おうと外へ出た。夜の間に降った雪が、ふっくらと積もっていた。いつの間にか、足首まで埋まる深さになっていた。子供のころに戻ったような気分で、ジフンはせっせと足跡をつけた。誰も踏んでいない雪が、柔らかく足を包んだ。きゅっきゅっと雪を踏む音が、明け始めた路地を起こした。
二日目は、簡単に朝食を済ませ、すぐに小樽へ向かう列車に乗った。札幌駅から乗り換えなしで行けるので、そう難しくはなかった。窓の向こうから街が消え、小さな建物が見え始めたかと思うと、やがて海が現れた。列車は、冬の海の波をかすめるように、しばらく走り続けた。耳には、昨日買ったテープの音楽が流れていた。十年以上も聴いているのに、飽きたとは思わなかった。ここで聴くと、なおさらだった。
小樽駅の一つ手前、南小樽駅で降りた。ここから、ゆっくり歩いて街を見て回るつもりだった。少し歩くと、オルゴールの店と蒸気時計が見えた。ジフンはカメラを取り出し、写真を撮りながら通りを眺めた。
「寿司を食べなきゃな」
目星をつけていた寿司屋を、何軒も回った。けれど、予約なしで訪れたジフンが座れる席はなかった。ようやく一軒見つけて入ると、主人が愛想よく迎えてくれた。メニューはすべて日本語で冷や汗をかいたが、知っている日本語を総動員し、どうにか十二貫を注文できた。カウンター越しに、主人が鮮やかな手つきで魚をさばく様子を、じっくり見つめた。やはり、本場の職人の手つきは違った。何げなく動かしているようで、刃先には迷いがなかった。
――先輩たちが魚をさばくときも、ああだったかな……。
お茶をすすりながら待っていると、醤油を塗った白身魚の握りが、一貫置かれた。
「くう……」
思わず声の出る味に、うっかり拍手しそうになった。ジフンは、寿司が置かれるたび、次々と口へ運んだ。
「チャル・モゴッスムニダ!」
「ごちそうさまでした」くらいは日本語でも言えたはずなのに、韓国語が先に飛び出した。幸い、意味は伝わったのか、会計をしてくれた店員も、礼を言って頭を下げた。十二貫では満腹にならなかったが、足取りは軽かった。運河を眺め、甘いものを食べながら歩くうち、小樽の日は、早くも暮れ始めていた。
「ええと……ここで合ってるのか?」
調べておいたバス停が、ここでいいのかわからなくなった。地図をあれこれ見てもわからず、案内所で尋ねると、乗り場とバスの番号を親切に教えてくれた。しばらく待つと、バスが来た。市街地を抜け、住宅街へ入っていった。低くてかわいらしい家々が、降り積もった雪に姿を隠していた。バスは力を振り絞るように坂道を上った。終点は、ロープウェイの入り口だった。「天狗山」と書かれた標識が、間違いなく着いたことを教えてくれた。いつの間にか、辺りにはゆっくりと闇が降りていた。幸い、ロープウェイの最終時刻までは、まだ十分に時間があった。
人は多くなかった。時間が遅いせいかはわからなかったが、観光客もほとんど見かけなかった。ロープウェイに乗ると、ゆっくりと展望台へ向かって動き始めた。薄暗くなった街が、少しずつ視界に入ってきた。タワーや展望台にはいくつか行ったことがあり、同じ日本の、大阪の展望台にも上ったが、初めて見るような気がした。ロープウェイは山頂で止まり、ジフンはすぐに降りて、足早に歩いた。展望台からの眺めに、言葉を失った。折しも雪が舞い落ち、景色に趣を添えた。小さな街の明かりが、星のように散らばり、それぞれの存在を照らしていた。山に積もった雪が光を反射し、暗くも明るくもない、不思議な夜景を、長いこと眺めた。遠くに見える暗いところは、きっと海だった。かすかに見える波は、小さな街が息をしているようだった。雪がふんわり積もっていくフードをかぶったまま、ぼんやりと景色を眺めていたジフンは、低い声でつぶやいた。もっと大きな声で言ってみたかったが、周りの目が気になり、できなかった。
「お元気ですか……」
返事は聞こえなかった。
ジフンの笑みと、小樽の夜景だけが、静かに光っていた。




