第56話 真っ白な街(1)
2013年冬、30歳のジフン
冷たい空気が、眉の上に降りた。吐く息は白く染まり、どこまでも伸びていった。北海道は、空港に着くなり、本当の冬とは何かを教えてくれた。連日のように降る雪が、車道も歩道も区別なく埋め尽くしていた。脇に積み上げられた雪は、ジフンの背丈近くまで盛り上がっていた。ソウルの雪には、うんざりしていた。いつからか、それほど多くは降らなくなったが、ひとたび降り積もると、通勤は戦争だった。けれど、わざわざ訪れた旅先の雪には、胸が躍った。
「うわあ……すごい雪。壮観だな」
リュックを背負い直し、札幌の中心部に着くと、街の中もさほど変わらなかった。大勢の人が歩くせいで、歩道の雪はかなり解けてぬかるんでいたが、除けられた雪は高く積まれていた。ジフンは地図を広げ、旅行サイトで予約しておいたゲストハウスを探した。すすきの駅から、そう遠くないところだった。街並みを眺めたくて、札幌駅から大通公園を通り、三十分ほどかけてゆっくり歩いた。日本は二度目だったが、ソウルに似ているようで、どこか違うという印象を、また抱いた。あちこちに書かれた日本語や漢字が、異国の風景をつくっていた。
「ええと、アノ……ヨヤク……したんですけど」
たどたどしい日本語に、韓国語まで交じった。
「チェックイン。チェックイン、プリーズ」
フロントのスタッフは、どうにか通じたのか、笑顔で応じてくれた。いろいろと話してくれたが、半分もわからなかった。やり取りしているうちに、幸い、英語の得意なスタッフだとわかり、説明は英語で聞いた。やがて部屋へ案内してくれた。二段ベッドが四つあり、八人が泊まれる部屋だった。ジフンのベッドは、入り口の近くにあった。スーツケースを引いて歩かないジフンの荷物は、少なかった。ベッドにリュックを放り出し、自分も横になった。しばらく寝転がったままスマートフォンをいじり、それから鞄を探って本を取り出した。旅の準備中に、本屋で買ったガイドブックだった。北海道は広すぎて、三泊で全部を回るのは無理だった。どうしても行きたい場所を二、三か所に絞り、そのページの端には付箋を貼ってあった。
「まずは……味噌ラーメン。どう?」
ラーメン屋には、長い列ができていた。有名な店は、やはりいつもこうだった。ジフンは飲食店で並ぶのが大嫌いだったが、この店にはどうしても来たかった。気温は低いのに、不思議と寒くなかった。周りの人を見ても、それほど厚着をしていなかった。
「ミソラーメン。ハナ」
「一つ」だけは韓国語になった。指を一本立てて注文すると、ほどなくラーメンの丼が出てきた。スープをひと口飲むと、熱い温もりが体に染み渡った。
「信じられないくらいうまい」
大阪に行ったときも、一度ラーメンを食べたが、あの店は最悪だった。有名だと聞いて行ったのに、アニメで見ていたラーメンの味が、この程度なのかとがっかりした。その話を聞いた職場の先輩は、
「うまい店に行ってないからだよ」
と、いくつかの店を勧めてくれた。今日訪れたのは、その一つだった。
旅の初日は、ごく普通に過ぎた。札幌の市内だけで、あちこちを見て回った。
「ああ、ここか?」
目指してきても見つけにくい、通りの片隅にある店だった。古いオーディオ機器を売っていた。棚には、きれいに整備されたらしいウォークマンやCDプレーヤー、さまざまな音響機器やスピーカーが並んでいた。足を止めたのは、ウォークマンのコーナーだった。思ったほど品数は多くなかったが、子供のころ、高くて買えなかったものもあった。
「ああ、これ……」
いつかチラシで見たウォークマンだった。青いボディーは今見ても格好よく、状態もよかった。
「エクスキューズ・ミー。これ、オネガイシマス」
店員はにこりと笑い、何かを説明してくれたが、やはりほとんどわからなかった。状態を示すランクが「A」になっていたので、そのまま買っても大丈夫だろうと思った。年月が経っていることを考えても、値段はかなり高かったが、気にならなかった。
今度はレコード店を探した。カセットテープを扱う店は別にあったので、地図とにらめっこしながら向かった。数えきれないほどのLPからCD、カセットまでが並ぶ店だった。別世界に来た気分だった。その気になれば、何時間でもいられそうだったが、ゆっくりと棚を眺め、一つを選んだ。
「よかった。あった」
『ORIGINAL SOUND TRACK / REMEDIOS』
映画のタイトルの下に書かれた、懐かしい作曲家の名前を口の中で繰り返し、カウンターで会計を済ませた。店を出て、腰を下ろせそうな場所を探した。ウォークマンに付属していたイヤホンは、思ったほどよくなかった。あのころは、確かに何の不自由もなく使っていたのに、耳にうまく収まらなかった。
「こんなにいまいちだったっけ?」
どうにか片耳にイヤホンを入れ、テープを再生した。バイオリンとピアノの旋律が響いた。歌詞のない曲ばかりだったが、だからこそ、よかったのかもしれない。音楽は冬の趣を、温かく、ときには寂しく映していた。目の前に、映画の場面が広がるようだった。周りの景色にもよくなじむ音楽に浸りながら、夕食を取る店へ向かった。




