第55話 二つの待ち時間(2)
ジフンの顔を思い浮かべると、つい、そんな言葉が口をついて出た。いい返事だなんて。そのとき言える、精いっぱいの言葉だった。
けれど、ガンウンとの関係を、はっきり終わらせる必要もあった。誰かと新しく始めるには、どうしても避けては通れなかった。いつも彼を遠ざけていたセハだったが、揺れる心からは目をそらせなかった。家の前で待っていたあの日、ガンウンは、ほとんど無理やりセハを抱きしめた。必死に自分を求める手が痛ましくて、少しの間だけ抱き返した。
そして、また、きっぱりと言った。
「あなたと付き合ってると、私は病んでいくの。そんな自分が、あまりにかわいそう。もう泣くのはやめたい」
何度も、オウムのように繰り返してきた言葉だった。
「ちゃんとするから。今度はちゃんとできる。お前がいなきゃ駄目なんだよ」
そして、返ってくる言葉も同じだった。できるだけ目は合わせなかった。手を振り払い、家へ向かって歩きながらも、振り返ってしまわないよう、歯を食いしばり、前だけを見て歩いた。部屋に入っても、明かりはつけなかった。ガンウンは、セハの部屋の窓がどこにあるか知っていた。カーテンを少しだけ開け、マンションの敷地の入り口を見ると、まだそこにいた。長いこと待って、ようやくバイクのエンジンがかかり、視界から消えた。ため息と一緒に涙が流れた。
今度こそ、本当に断ち切るときだった。けれど、連絡してきたり、訪ねてきたりするガンウンを、完全に遠ざける方法は、まだわからなかった。ジフンは、そんなセハを、また笑わせてくれた。その気持ちに応えるには、まず自分の心に確信を持たなければならなかった。
家に帰るバスは、今日に限って、なかなか来なかった。持ってきた教科書が、肩に重くのしかかった。明日で試験も終わりだった。もうすぐ来る夏休みが待ち遠しかった。そして、寄宿学校からも帰ってきたら……と考えると、いろいろなことが頭に浮かんだ。塾にはこれまでどおり通うのだろうけれど、隣には、誰かが立っていてくれそうだった。
バスに乗ったセハは、鞄を探って携帯電話を取り出した。メールを開き、ジフンの名前を探した。告白以来、何の連絡もなかった。待っていてとは言ったけれど、本当に一途に、ただ待っているのだと思った。これもジフンらしさなのだと思うと、笑いがこぼれた。セハはメールを書いては消した。軽い言葉に受け取られないかと、慎重に言葉を選んだが、気に入るものは浮かばなかった。そうしているうちに、バスはいつの間にか家の近くに着いていた。
家の向かいの公園が見えた。まだ、晴れやかな午後の日差しをいっぱいに含んだ公園だった。散歩する家族や、子供たちの笑い声が、公園を満たしていた。セハは横断歩道を渡り、公園のベンチに座った。重い鞄が、隣の席にどさりと倒れた。ジフンの呼び出し音は、いつも同じだった。音楽のない、機械的な呼び出し音。いつも耳に音楽を流している子にしては、味気なかった。いつか、そのことを尋ねたら、
「ああ、あれは俺が聴くわけじゃないから」
と答えられ、しばらく笑いが止まらなかった。
「もしもし!?」
慌てて電話に出る声がした。
「うん、セハだよ。何してるの?」
「あ、今日の試験が終わって、家に帰るところ」
「たくさん勉強した?」
「おかげで。前よりは、たくさんやったよ」
「よかった」
周りは、案外静かだった。学校が終わったのなら、友達と集まっていそうなのに、そのわりに声が聞こえなかった。
「試験、いつまで?」
「ええと……今週の金曜日。あと三日だね」
「そっか。試験、頑張ってって言いたくて」
「うん。ありがとう。セハも頑張ってね」
セハは笑った。明日で終わるのに、今ごろそんなことを言うのがおかしかった。
「ばか。遅いよ。私、明日で終わりだよ」
ジフンが、気の抜けたため息をついたような気がした。
「いや……俺も、頑張ってって連絡したかったんだけど、待っててって言われたから、待ってたんだ」
「ふふ。そんな気がした。だから、電話してみたの」
「そうだったんだ。連絡すればよかった。本当にばかだったね」
「そんなことないよ。明日試験が終わったら、一日休んで、その次の日に寄宿学校に行くんだ」
「うん。体に気をつけて、行ってきてね」
「うん。連絡するね」
電話を切り、また家へ向かった。蒸し暑い夏の匂いが、甘く感じられた。セハは携帯電話を開き、今日の日付を確かめた。
「二十七日。うーん……二十七日……」




