第50話 ミントの香りがする子(3)
ジフンは、少しためらった。答えに困ったからではなく、目の前の子が、本当にいい人だったからだ。けれど、心に浮かぶのは一人だけだった。ヒョンソにそれを隠す気にはなれず、すぐに答えた。
「うん」
ヒョンソは、しばらく何も言わなかった。揺るがないジフンの目をじっと見ていると、ふっと笑いがこぼれた。
「そうだろうとは思ってた。見てたら、わからないわけないよね」
二人はグラスを合わせ、一杯ずつ飲んだ。答えはしたものの、ほかに何を言えばいいのか、わからなかった。
「でも、答えるの早すぎない?」
ヒョンソはくすくす笑った。嘘のない笑いにつられ、ジフンもつい笑ってしまった。
「そうだった? でも、嘘はつけないでしょ」
「正直すぎて、ちょっと傷つくな」
ただ、取り繕うのが苦手なだけだった。
「そういうところが好き」
一日続いていた楽しい空気は、いつの間にか消えていた。静かに空いていく焼酎のグラスとタバコの煙だけが、二人の間を行き交った。
「そんな顔しないでよ。何か悪いことでもしたの?」
ヒョンソは苦笑した。もう自分の気持ちを明かした以上、こうして黙り込んでいるのは、もっとばかみたいに思えた。
「うん。謝るのはやめとく。俺、一度に二つのことはできないみたいだ。今好きな人とのことに、ちゃんと決着をつけないと」
「そうだね。私も、ほかの子に気を取られてる人は、あんまり好きじゃない」
ヒョンソの言葉は冗談めいていたが、棘があった。それでも、空気がこれ以上暗くならないようにしてくれた。
「セハの、どこが好きになったの?」
ジフンは体を伸ばし、背もたれに寄りかかって考えた。初めて会ったときから好きだったが、どこがと聞かれても、すぐには思いつかなかった。
「どうだろう。初めて会ったときから好きだった。知るほど、もっと好きになって。濁りのない、澄んだ人だなって思ったし、真面目なところは尊敬した」
「ふうん……それから?」
それ以上、思いつかなかった。理由を探すこと自体が難しかった。
「よくわからないな。そもそも、理由なんてあるのかなって思う」
「はは。でも、それはそうだね。まず好きになって、あとから理由を探すんだよね。誰かを好きになるって、そういうことなのかも」
ゆっくり飲んだつもりだったが、短い会話の間に焼酎が一本空き、灰皿には吸い殻が積み重なっていた。二人は、もう一本頼んだ。
「これだけ飲んだら帰ろう」
「うん」
ヒョンソは届いた瓶を開け、一杯ずつ注いだ。
二人はいろいろな話をした。ヒョンソは、セハと塾へ行くために待っていたのがジフンだったので、本当に驚いたと言った。ジフンは、あの日を思い出した。誰かを待つのは、本当に気持ちのいいことだった。そして、セハを待っていたはずのガンウンを思い出した。今、二人はどうなったのだろうという疑問に、ただタバコの箱へ手が伸びた。
「一つだけ、教えてくれる?」
「何を?」
「告白して、どうなったか」
「告白か……」
いつかは言わなければならないと、わかっていた。けれど、そのたびに何かに遮られる気がした。デヒョンのときも、ガンウンのときもそうだった。
「告白しなきゃ、セハだってわからないよ」
「そうだね。いつがいいのか、わからないんだ」
「どうして? 振られるのが怖い?」
「それもあるし。今の関係まで遠くなるのが怖いっていうのもある」
ヒョンソは不満そうな顔をして、タバコを押しつけて消した。崩れる灰から漂うミントの香りまで、鋭くなった気がした。
「さっき言ってたでしょ。好きな人とのことに、決着をつけないとって」
「言ったよ。その決着が、いい結果であってほしいんだ」
「じっとしてたら、何も起こらないよ。言わなきゃ、その先はないんだから」
簡単な話だった。
何もしなければ、何も起こらなかった。
――本当に、何でもなかったみたい。
ふと、セハの言葉を思い出した。そもそも、自分が言ってあげた言葉でもあった。セハは、デヒョンに何もしなかった。手紙も消えてしまった。今では、本当に何でもないことになってしまった。けれど、ジフンにとってセハは、そんなふうに何でもない存在ではなかった。
「言わなきゃ」
ヒョンソは、ようやく明るく笑った。
「そうだよ。いちばんいいところは、正直なところだよ。単純なところもね」
ヒョンソの笑顔を見ると、息苦しかった胸に温もりが流れ込んだ。その温もりは、少しずつ高揚に変わった。ジフンは、残っていた酒を飲み干した。
「ありがとう。本当に」
ヒョンソとは、タラクを出るとすぐに挨拶して別れた。バス停も反対方向だったが、バスを待ってあげるといった気遣いは、お互いに必要なかった。帰り道、ジフンの中には、次第に確信が満ちていった。
カンナム駅のバス停で降りると、セハを初めて見た日を思い出した。ほかの友達と笑って話している姿を、遠くから眺めているだけの自分も、そこにいた。まだ、あの場所にとどまっているだけの子だった。今なら、その子と一緒に家へ帰ることができた。
何を言えばいいのか、繰り返し口にしてみた。整理できなかった文字が、集まっていった。どうしても口に出せなかった言葉が、頭の中で踊っていた。いつもは苦労して上る急な坂を一気に越え、気づけば家の前に着いていた。
部屋の扉を開けて入り、冷たい水を一杯飲んだ。短い間に焼酎を一本飲んだあとだったが、頭はいつにも増してはっきりしていた。ジフンはすぐにパソコンをつけ、見慣れたアイコンをクリックした。インターネットの時代になり、パソコン通信を訪れる人は、少しずつ減っていた。ジフンも、文章を投稿したり、コメントを残したりしなくなった。よく参加していた「詩とエッセイ」のサークルには、かつて、どんな人なのだろうと気になっていた見慣れたハンドルネームが、半分も残っていなかった。みんなどこかへ消えてしまった。久しぶりに投稿ボタンをクリックし、浮かんだ文章を忘れないうちにと、一気にキーボードを叩いた。
『あの日を置いてきました。
私は、立ち尽くしたまま見ていました。
ただ、見ていました。
あの想いを、あの場所に置いてきました。
……
今日、私はあなたのもとへ向かいます。
……』
散らばっていた思いは、言葉になり、文章になっていった。行を改めるたびに、自分の心がよりはっきりと見えてくる気がした。誰かをここまで好きになれることが、うれしかった。保存ボタンを押し、時間を確かめると、いつの間にか十二時が近づいていた。今すぐにでもセハに電話したかった。けれど、その前に、片をつけておきたいことがあった。




