第44話 何でもない(1)
2001年6月、18歳のセハ
試験期間を数週間後に控え、蒸し暑い夏がやってきた。セハの一日は、いつもと変わらなかった。学校へ行き、授業を受け、友達とおしゃべりしているうちに、いつの間にか夕方になった。
家族も普段と同じだった。母は食事の支度に追われながら朝を迎え、兄の部屋の扉は固く閉ざされていた。セハの笑顔は、家族に落ちた影をひととき覆い隠すには十分だった。
金曜日に通っていた塾はやめた。友達と約束をしたり、どこかへ遊びに行こうという誘いについていったりして、夕方からの時間を過ごしたい気持ちもあった。それでも、セハは学校が終わると、そのまま自習室へ向かった。
携帯電話の電源は、もう切らなくなった。習慣のように切っていたが、今はそうする理由がなかった。受信箱を開くと、ジュミョンやソヒョン、ジフンをはじめ、友達からメールが届いていた。一通ずつ返事を書いて言葉を交わすのも、小さな楽しみの一つだった。
ときどき、ガンウンからメールが来る日もあった。登録はもう消してしまったが、簡単には忘れられない番号が表示されると、胸がひやりとした。どうしようかと迷い、結局、携帯電話を閉じてしまった。
座り直し、教科書と参考書を開いて、ノートにまとめ始めた。まとめ終えると問題を解き、難しいものやわからないものには、別に印をつけておいた。いつもの勉強のやり方だった。
けれど、最近はどういうわけか、長い時間集中するのが難しかった。ある週末の湿った空気の中へタバコの煙が散っていった夜、ジフンが話してくれたことが、頭の中を引っかいているようだった。気分を落ち着けようと自動販売機で缶コーヒーを買い、少し風に当たって戻っても、同じだった。
思うように勉強が進まず、自習室の片隅に置いておいたノートを、いつものように取り出した。誰かに宛てた手紙を、一か月以上、日記のように書き続けてきたノートだった。次のページを探して今日の日付を書き、手紙を書き始めた。
『To. デヒョン』
何かを書いていれば、落ち着ける気がした。けれど、静かな自習室の空気と、セハの頭の中はまるで違っていた。脳まで響くような騒音に満ちたコンサートホールに、一人で放り込まれた気分だった。イヤホンを外しても、その響きは止まらなかった。初めてこんな症状が現れたときは、胸が苦しくなり、勢いよく立ち上がって飛び出したこともあった。同じ部屋を使う人たちの、苛立ちを含んだ視線が感じられた。今では、その響きを背景の音楽にして、手紙を書いていた。
今日もそうしてしばらく書き続けていると、突然、何かがこみ上げてきた。指先に力を込め、ボールペンでノートに何度も乱暴な線を引いた。八つ当たりされたノートは端が破れ、一か所には穴まで開いた。どうしてこんなに腹が立つのか、わからなかった。もう、自分が誰を好きで、誰を待っているのかさえ、わからなかった。セハは、破れたノートをじっと見つめた。この破れたノートは、自分の心ではないかと思った。ふと、ジフンが言ってくれた言葉を思い出した。
「何でもないと思えば、本当に何でもなくなるかもしれないよ」
デヒョンのことを教えてくれたジフンを、少し恨んだこともあった。いっそ、知らないままでいたほうがよかったのだろうか。
そんなはずはなかった。大丈夫、何ともないと自分をだますセハに、ジフンは、それなら本当に大丈夫だよと慰めてくれた。そうなればいいと、ため息で答えた。破れた手紙を見ていると、もう本当に終わりにしなければという実感が湧いた。
紙を裂く鋭い音に、また周りの視線を感じた気がして、帰り支度をした。荷物のほとんどは自習室に置いたまま、出てきた。明日は午前の授業だけで、必要な教科書は家にあるので大丈夫だった。バッグに入っているのは、筆箱と身の回りのもの、それから手紙のノートだけだった。少し歩きたくなり、そのまま通りを歩いていった。
バッグが軽いおかげで、歩きやすかった。歩調は速くなったり、遅くなったりした。木々から漂う湿気が、鼻筋に雫を結んだ。背中には汗の粒が浮かび、ブラウスを濡らした。久しぶりに体から発散される熱が、頭を静かに冷ましてくれた。大きく息を吸うと、ひと雨に洗われた街の匂いが、胸の奥まで満ちた。
なぜか笑みがこぼれた。考えてみれば、本当に大したことでもなかった。しばらく歩いたり走ったりして、家の向かいの公園に着いた。まだ遅い時間ではなく、散歩をしている人もちらほら見えた。セハは携帯電話を開き、電話をかけた。
「もしもし?」
「うん、セハだよ。何してる?」
騒がしい音にかき消され、ジフンの声は小さく聞こえた。やがて騒音は少しずつ遠のき、すっかり消えた。
「うん。やあ。みんなとカラオケ」
「どこ? ヤンジェ?」
「うん、まあね。セハは?」
「家の前の公園」
電話はかけたものの、これといった用事は思い浮かばなかった。かけた理由はあったが、いざジフンの声を聞くと、わざわざ口にするのも妙な気がした。少し沈黙が流れると、ジフンは誰と何をして遊んでいるのか、あれこれ話してくれた。セハは、今からでもみんなのいるところへ行きたかった。
けれど、今日はまだ、やることが残っていた。
「そっか。ジフンがいないとタバコがなくて。それで、ふと思い出してかけてみたの」
ジフンは、少し黙った。
「行こうか? タバコの配達」
セハは、くすくす笑った。
「いいよ。みんなと遊んでるのに、来られないでしょ。気にしないで」
大丈夫だと言うと、また沈黙が流れた。その沈黙が、不思議と安心させてくれた。
「ジフン」
「うん?」
「本当に、何でもなかったみたい」
電話を切って辺りを見ると、人目を避けるには、まだ早すぎた。セハは、ひとまず家へ向かった。汗で濡れた服を脱ぎ、温かい湯で体を洗った。父も母もまだ仕事から帰っていないのか、家の中にはセハの息遣いだけが聞こえた。部屋へ入ろうとして、ふと目に入った兄の部屋の扉が、今日はひときわ暗く感じられた。幼いころ、手を離さずに一緒に歩いてくれた兄の温もりが、まだ手に残っている気がした。セハは手のひらをこすり合わせ、しばらく考え込んだ。ジフンが言ったように、これも何でもないことだったのかもしれない。
セハは、兄の部屋の前に立った。それから、こんこんと扉を叩いて言った。
「お兄ちゃん! ただいま!」
それだけだった。何年かぶりに兄に声をかけたという事実に、胸がいっぱいになった。笑みがこぼれ、同時に涙がこみ上げた。悲しくはなかった。会いたいとも叫びたかったが、それはやめておいた。もう、胸のつかえが取れた気がした。
部屋に戻ったセハは、机の引き出しを開けた。奥深くに隠しておいたタバコとライターを探した。ずいぶん前に買ったそれは、ティッシュでぐるぐる巻きにされていた。ミイラのような包みをほどくと、独特の匂いが空気に乗って鼻先へ届いた。涙はもう流れず、頭もすっきりしていた。




