第30話 君の笑い声だけ(4)
「俺が状況見てやるから、最初から全部話してみろ」
ヒジェはジフンの話が気になってきた。普段もいくつか聞いてはいたが、全部聞いてみたかった。
「何の話?」
「だから、最初から今まで、セハと何があったのか。詳しく知らなきゃ、診断もできねえだろ」
ジフンは、初めてセハに会った日を思い出した。
その後、ときどき会うと挨拶したこと。
マクドナルドで偶然会った日、小説の話と音楽の話、カラオケ。
ロッテワールド。それから、セハの家の前……。
思い浮かぶ順に話した。長くも短くもない話だった。
「いいな」
「いいじゃん」
ヒジェは話を聞きながら、さっきから、いいという返事ばかり繰り返していた。セハの家の前の話はごまかしたが、ひととおり話し終えたジフンが尋ねた。
「おい、くそ。さっきから何がそんなにいいんだよ?」
ヒジェは顎を撫で、目を伏せた。
「うーん……」
「何だよ。全部、友達同士って感じか?」
「いや、順調すぎる気がして、変なんだよ。何か引っかかるっていうか。あの子、彼氏と別れて、まだそんなに経ってねえだろ」
「うん、そうだよ。いいことじゃねえの?」
ヒジェは眉間に力を込め、首を振った。何杯目か忘れるほど注ぎ合った酒をまた注ぎ、口へ流し込んだ。
「あれだけ長く付き合って、別れたばっかで平気なわけねえだろ。円満に別れたにしても、そうじゃなくても。でも、平気すぎる感じがすんだよな」
そうなのかもしれないと思った。彼氏と別れたことを初めて話したときの、セハの翳った顔が浮かんだ。
「ほかに好きなやつがいるんじゃねえの?」
杯を口へ運びかけたジフンの指先が、ぴくりと止まった。顔に出さないよう、一気に飲み干し、苦い顔をして眉を寄せた。
「そんなの、俺にわかるかよ」
ヒジェは、深刻な顔をする友達が、何となく気の毒になった。こうは言ったものの、ヒジェにも、女心はわかるようでわからないものだった。
「じゃなきゃ、まだ元彼と連絡取ってたりするのかもな」
どちらにしても、ジフンにとっていいはずがなかった。けれど、ヒジェの話を聞いているうち、何となく見えてきたようだった。セハの家の前で交わした言葉が浮かんだ。
――それでね。実は、好きな人ができたみたいなんだ。
はっきりと覚えているひと言。それに続いた名前と、目をそらしてきた数々の感情が、ジフンの周りを巡った。そのとき、携帯電話の着信音が激しく鳴った。
「おう、今どこだ?」
インスだった。
「やべえことになった。タバコ吸ってるとこ、先生に見つかったんだよ。今まで散々殴られて、説教も山ほど食らって、親にも連絡したみたいだ。反省文、五百枚くらい書いて、やっと解放された」
親にまで連絡がいったのなら、まずは家へ帰らなければならない。二人は気をつけて帰れと言い、電話を切った。
「家にも連絡したみたいだ。すげえ殴られたって」
「そりゃそうだろ。俺は見つかったことねえから知らねえけど、たぶん明日は、もっと殴られて、学校中の掃除させられるぞ」
友達は心配だったが、どうすることもできなかった。
「飲み終わったら、俺らも帰ろうぜ」
ヒジェが残った酒を最後まで飲み干して言った。やはり早く帰り、明日はまともな顔で登校したほうがよかった。けれど、あれほど話した末に苦いものだけが残り、もう一杯飲もうと言いたかった。海での自分のように、言えない気持ちを酒に預けてばかりの、情けない人間になりそうで、ジフンも一緒に片づけた。もうあんなふうにはしないと、インスと約束したことも思い出した。
「あいつらの友達だから、明日は俺らも呼ばれるかもしれねえぞ。持ち物、ちゃんと確認してから学校来いよ」
「そうだな。どうせ、何も持ってねえけど」
声には、自分でも気づかないうちに、元気のなさがにじんでいた。
「元気出せよ。男は自信だ」
「だよな。とりあえず、お前の言うとおり、明日はバス停までだけでも送って、映画に誘ってみようかな」
「そうだ。それで始めりゃいいんだよ」
ヒジェの言うことは、どれももっともらしく聞こえた。だが同時に、本当にセハに届くのだろうかという不安もあった。
二人はまた明日と別れた。乗るバスも逆方向だったので、ヒジェは挨拶をすると、素早く横断歩道を渡り、見えなくなった。バス停は近かったが、ジフンは何となく、もう少し歩きたくなった。ポケットの中で携帯電話に触れた。セハはまだ塾にいる時間だった。ひとつ先のバス停まで歩こうかと、足の向きを変えた。涼しい夜の空気に頭が冷やされ、少しずつ冴えていった。
バス停。
映画。
セハの笑い声をはっきりと思い出すほど、振り払いたかった名前も、同じようにはっきり浮かんだ。音楽でも聴こうかと鞄を前へ回したが、すぐにやめた。にぎやかな通りを抜け、静かな道へ渡ると、どこへ向かうのかわからない車やバスの音だけが響いた。やがて、次のバス停に近づくと、街灯が一本、危うげに明滅していた。何度も消えそうになりながら、かろうじて光をつなぎ留めていた。
ジフンは、もうひとつ先のバス停まで歩くことにした。




