第29話 君の笑い声だけ(3)
「何だよ。何でお前しかいねえの。ほかのやつらはどこ行った?」
薄暗いPCバンでは、ゲームの音と話し声の間に、ところどころタバコの煙が漂っていた。その中で、ヒジェだけが忙しく手を動かしていた。ほかの友達はどこにもいなかった。
「着替えるって、一回家に帰ったんだよ。それで戻ってみたら、誰もいねえの。電話にも出ねえし。どうも、あそこで先生に見つかったみたいだな」
「ひえっ」
ジフンは携帯電話を確かめたが、何の連絡もなかった。まだ生徒指導室に捕まっている姿が浮かんだ。ジュミョンにも電話して聞いてみると、インスとはさっきから連絡がつかないと言った。状況を説明し、電話を切った。
「ほんとみたいだな。ちょっとおとなしくしとかねえと」
「だな。見回りに来るとは思わなかった」
めった打ちにされているところを思うと、背筋が寒くなった。セハと塾のことを相談するため、先に出たのが不幸中の幸いだったが、友達には何となく申し訳なくもなった。
「お前も運いいな。どこ行ってきたんだよ」
ヒジェは椅子の背もたれに深く体を預け、ゲームをしながら尋ねた。
「お前だって同じだろ。その間に家帰って、お前だけ見つからなかったんじゃねえか」
「俺、妙にうまく避けられるんだよな」
ヒジェは喉の奥で笑った。いつもとんでもない幸運に恵まれているやつだと思う友達だった。家は学校の近くにあった。ちょっと家に寄っている間、待っていた友達だけが先生に見つかる光景が浮かんだ。
「俺、塾行こうと思ってさ。そっち寄ってきたんだよ」
ヒジェは、生まれて初めて聞く言葉のように、眉をひそめた。
「塾? 何で塾? 何の塾だよ?」
「その……実は、セハが一緒に塾に通ってみようって言ってくれて。塾のあるとこで会ってきた」
ヒジェはゲームをする手まで止め、勢いよく体を起こした。
「おお! セハ? 付き合ってんの?」
気の早いやつだと思った。
「付き合ってねえよ、バカ野郎。勉強手伝ってくれるってだけだ」
ヒジェは、同じことだろと、にやりとした。それから、言葉を足した。
「おいおい、誰に嘘ついてんだよ。お前が急に塾に通う理由なんて、ほかにあるか?」
「そりゃ、まあ。仲よくなりたいのもあるけど、俺も少しは勉強してみようと思ってんだよ」
ふうん、と言いながら、ヒジェはタバコに火をつけ、椅子ごとこちらへ向き直った。ゲームはもう眼中にないようだった。
「作戦はすげえいいな。セハは勉強する子だから、塾に一緒に通えば、よく会える。よく会ってりゃ情も湧くし、情が湧きゃ男女の仲にもなるってわけだ。やるじゃん、イム・ジフン」
男女の仲、という言い方は気に入らなかったが、その過程自体は悪くなかった。よく会って、情が湧いて、それから……。
「まだ、そういうのはわかんねえよ。セハ、俺のこと完全に友達だと思ってる気もするし」
ヒジェはジフンにもタバコを勧め、火までつけてやりながら言った。
「友達だって思われちまうと、危ないな。女って、一回友達だって思うと、男としては見られなくなるっていうし」
たしかに、女のことはいちばんよくわかっているやつだった。ジフンの前のパソコンは、もうずいぶん前から起動していたが、それよりも、この話のほうが気になってきた。
「じゃあ、どうすりゃいいんだよ。俺が見る限り、八割か九割は友達だと思われてるんだけど」
「うわ……それは困るな」
恋人になるには距離を縮めなければならないが、近づくうちに、うっかり友達になってしまっては困る。どうにも解けないジレンマだった。ヒジェは何か思いついたように、人差し指を立てた。
「まずは」
「うん。何だよ、何だよ?」
救世主に出会ったような気持ちで、ジフンは耳を傾けた。
「酒買って、公園行こうぜ。こういう話は、飲みながらしねえと」
自然と、呆然とした顔になった。悪態をつきそうになったが、それ以上せかすより、ヒジェの機嫌を取ることにした。
「わかった、わかった。行こう。行ったら話してくれるんだよな?」
「心配すんな。俺の持ってるもん、全部伝授してやるから」
二人はPCバンの会計を済ませ、よく行くスーパーに寄った。ジフンは制服姿だったので、少し離れたところでヒジェを待った。やがて、酒と菓子の入ったビニール袋を揺らしながら、ヒジェが現れた。歩き出そうとしたジフンは、何かを思い出した。ちょっとスーパーへ行ってくるから待っていてくれと言い、小走りで戻った。売り場を探る指先が、チョコ牛乳のところで止まった。
「これも一本、飲もうと思って」
「何で牛乳。もう十分でかくなってんだろ」
「うまかったから」
チョコ牛乳で背は伸びねえよ、と言ってやりたかったが、それもぐっとこらえた。頼れるのは、ヒジェだけだった。
「さあさあ、まず一杯どうぞ」
ヒジェは、ジフンがすかさず先に注いでくれるのが気に入った。必死になっている友達が、かわいくもあった。
「おう。お前も飲めよ」
二人は互いに酒を注いだ。ジフンは口を真一文字に結び、ヒジェの言葉を待った。
「でも、すげえ簡単なことなんだよ。男としてすることをするんだ。友達同士でやるようなことじゃなくて」
ジフンには、抽象的な話に思えた。それがわかっていたら、こんなふうに友達にすがってはいない。
「だから、それが何だよ」
「お前も考えろよ。デートに誘え」
「デート?」
ヒジェは舌を鳴らして杯を空け、口の中の苦みを味わうように、舌を動かした。実際には、ちょうどいい案が浮かぶわけでもなかったが、精いっぱい頭をひねった。
「そう、デート。また馬鹿みたいに『俺とデートする?』なんて言うなよ。さりげなく、ぽんと投げるんだ。まず、塾が終わるころには暗くなってるから、家まで送るって言え」
「送るの、いいな」
ヒジェは手足まで動かし、シミュレーションでも見せるようだった。ジフンの顔もようやく明るくなった。一寸先も見えない霧の中で、どうにか足元だけが見えた気分だった。
「そうだ。でも、いいって断られるかもしれねえから、バス停までだけでも一緒に行け」
黙って聞き入るジフンをちらりと見て、続けた。
「家まで送るってのは、重く感じるかもしれねえけど、男として意識してりゃ、普通は喜ぶだろ。そうじゃなくても、今からがっかりすんなよ。今は積み重ねてく段階だから」
「うん、うん。がっかりしねえよ」
二杯目を注いだ。ヒジェはぐっと飲み、苦い顔をした。
「で、さらっと言うんだ。『週末、映画でも観に行かない?』って」
「あああ……」
ジフンは頭の中で、その場面を思い浮かべた。何でもないひと言のようでも、映画の話を切り出せるだろうか。もう緊張してきた。
「俺、もうちょっとビビってんだけど。嫌だって言われたら、どうすりゃいい?」
ヒジェは、当たり前のことを聞くなというように答えた。
「そりゃ、振られたってことだ。お前、アウト」
ジフンは頭を抱えた。再び、霧が周りを覆った。




