第91話「夜の使い方」
戦いの後の奈落は、忙しかった。
まず、確かめたことがある。奈落は、消えてなかった。白の海は晴れたが、夜そのものは、残ってた。岩陰も、宿も、定石の壁も、これから落ちてくる誰かのための場所も、全部。
変わったのは、一つだけだ。
天井が、薄くなった。どの層からでも、目を凝らせば、上の方に、朝の色が透けて見える。——出口が、見えるようになった。それだけで、この世界の意味は、半分変わった。住む場所から、通る場所に。
俺たちは、最後の仕事に、かかった。
定石の壁への、加筆だ。
戦いの記録。白の正体。読み合いの効き目。そして——一番でかい一枚に、俺は、これを書いた。
——夜の使い方。
——落ちたら、まず寝ろ。ここは、そのための場所だ。作った奴が、そう彫ってた。
——回復したら、書け。書いたら、読み合え。読み合ったら——登れ。
——夜は、いい場所だ。いい場所だから、住むな。
——朝は、外にある。
貼り終えると、爺さんが、隣に来た。
「……儂はな、ここに残るよ」
「爺さん」
「宿は、要る。これからも落ちてくる者のために。……それにな、儂の場合は、住んどるんじゃない。勤めとるんじゃ。朝は、ちゃんと知っとる側よ」
爺さんは、皺だらけの顔で、笑った。
「——姪っ子と、同じでな」
その帰り、回復所に寄ったミナが、大声で俺たちを呼んだ。
泉の縁の、石の割れ目に——緑の芽が、出てた。
小指の先ほどの、双葉。奈落で緑を見たのは、苔とキノコを除けば、初めてだった。種の出所も、理屈も、誰にも分からない。ミナはその場に張り付いて動かなくなり、ガルドが「踏むでないぞ! 誰も!」と周囲に石で柵を組み、爺さんは一目見て、「……ほう」とだけ言った。
文字の雨と、関係あるのかは、分からない。検証のしようもない。ただ、その日から回復所に来る連中は、全員、まず芽を見に行くようになった。増えたのは双葉一つで、変わったのは、全員の朝の順路だった。
祝いは、三日、続いた。
中継街は史上初の「白紙の止まった週」を勝手に祭りにして、岩球の臨時大会が開かれ(俺はまた三振した。過去一、沸いた)、ヴァーノは開店前の店先で果実の搾り汁を配って未来の客を青田買いし、爺さんの食堂は連日満員で——それでも粥の味だけは、一度も、ぶれなかった。
先輩冒険者Aのメモ
(この欄は、しばらく空白のまま掲載します)




