第90話「A」
Aは、斜面の一番上の岩に、座ってた。
いつもの、定位置の座り方で。
ただ——もう、半分、透けてた。
右腕は、肘から先が、ない。左肩も、胸も、朝の光が、素通りし始めてる。俺が駆け寄ると、あの男は、いつもの軽さで、手を——残ってる方の手を、上げた。
「よう。……署名、見事だったわ」
「————A。あんた」
「ん。まあ、見ての通りだw」
消える。
この男は、消える。俺が、あの男の知らない道を選び切ったから。二十七通の夜から、三行の手紙から、六畳の署名まで——一手ずつ、この男を、薄くしてきたのは、俺だ。
「……すまん、とは、言わねえぞ」
「おう。言ったら怒るとこだったわ」
Aは、笑った。
「言ったろ。消える側の未来ってのは、悪い気分じゃねえって。……あれな、強がりで言ったんだけどよ。今、本物になったわ。——なあ、ノボ。最後に、俺の話、少しだけしていいか」
「ああ」
「俺はよ。……ここに残ったんだ。あの獣に、言い返せなくてな。それきり、何周も、過去の自分の隣を、うろついてた」
透けた顔が、俺を見た。
「————最後に、聞けたわ。ど真ん中でよ。……悪くねえ、問答だった」
最高だよ、この人生。
白の海に向かって俺が吠えた、あの答え。あれは——この男が何周もかけて、誰かの口から聞きたかった、たった一つの。
「なあ、A。最後に、一個だけ教えろ。……あんたの『A』って、何の頭文字だったんだ。エースか? 兄貴のつもりか?」
Aは、透けていく身体で、心底おかしそうに、笑った。
「————『朝』だよ」
「————」
「俺が、一番帰りたかったやつの、頭文字。……帰れなかったから、せめて名前だけ、持って歩いてたんだわ。ダセえだろw」
「……あんた、今」
「ん?」
「————質問に、答えたな。初めて」
Aは、一瞬きょとんとして、それから、心底おかしそうに笑った。
「————ほんとだw 最初で最後の、仕様変更だわ」
朝の光が、強くなった。
Aの輪郭が、光の中に、ほどけ始めた。文字の雨の一粒一粒と、同じ光り方で。
——待て。
気づいたら、俺は、手を伸ばしてた。
「————消えるんじゃねえ」
「……あ?」
「昨日、俺が何に署名したか、見てたろ。俺の書は、消された版を消さない書だ。——あんたも、俺の版の一本だろうが。例外を作る気はねえぞ」
俺は、残ってる方の、あの男の手を、掴んだ。
「————載れ。俺に」
Aは、目を丸くした。それから、フードのない顔で、盛大に、噴き出した。
「……はっ。w お前、俺を載せるってか。この——出来損ないの、一本を」
「出来損ないじゃねえ」
掴んだ手に、力を込めた。
「先に生きて、先に間違えて、先に全部見て——夜に残って、待っててくれた版だ。何周もかけてな。……そういう章を、俺の書は、白紙のままにしない」
光が、動いた。
散っていきかけたAの光が、向きを変えて——掴んだ手から、俺の中へ、流れ込んでくる。温度があった。日向みたいに軽い、あの声と同じ温度が。積層の、一番上に、新しい層が、載っていく。
その流れの中で、声が、聞こえた。耳からじゃない。内側から。
『……おまえは、俺だ』
「————ああ」
俺は、答えた。
「俺は、おまえだ」
光が、収まった。
岩の上には、誰もいなかった。手の中の感触だけが、残ってた。それと——胸の奥に、一つ。今までなかった、軽い気配が。日向みたいなやつが。
『…………ん。悪くねえ宿だわ』
内側から、あの声がした。
「……家賃は取るぞ」
『はw 何で払やいいんだ』
「決まってんだろ。——問いで、だ」
岩の表面に、爪で刻んだみたいな、小さい文字があった。彫りたてだった。消える前に、あの男が、刻んでいったやつだ。
——本日の記録
——・消えた。いや——引っ越した。悪くない形で
——・おい、どう思う?
俺は、自分の書を開いて、返事を書いた。
——読んだ。……最高の載り方だよ、先輩。
……と、書けたのは、そこまでだった。
その夜、俺は独りで宿の裏に出て、長いこと、透けた天井の向こうの朝色を見てた。内側の同居人は、気を利かせたのか、一言も、喋らなかった。
看取りってのは、相手が生きてても、あるんだな。
声を出さずに泣くのは、慣れたもんだった。……慣れたもんだったのに、その夜のは、長かった。
(この回のメモ欄は、空白のまま掲載します)




