第89話「文字の雨」
六畳の間を出ると、世界が、変わってた。
白の海が——引いてた。いや、引いたんじゃない。変わってた。
夜明けの光の中で、白かった海面が、ほどけて、無数の細かい光になって、空に、昇っていく。目を凝らして、気づいた。光の一粒一粒が——文字だった。
何百年ぶんの、読まれなかった文字たちが、朝焼けの奈落を、雪の逆回しみたいに、昇っていく。
そして、降ってきた。
昇り切った文字たちが、雨になって、斜面に降った。触れても、掠れない。逆だ。降った文字は、そこらの岩に、壁に、みんなの開いた書に——染み込んで、還っていった。
「————お、おい! 見ろ、書が!」
ヴァーノの叫び。あいつの書の、囓られた掠れが、降ってきた文字で、埋まっていく。ガルドのも。ミナのも。百人の書、全部。爺さんの帳簿の、姪っ子が読んでた以外のページまで。
消されたものが、載り直していく朝だった。
斜面のあちこちで、変な声が上がってた。歓声とも、嗚咽ともつかない声が。自分の書に還ってきた文字を読んで、リタの母親が座り込んで泣いてた。還ってきたページに、ラドの名前があったらしい。
俺は、朝焼けの空を、見上げた。
文字の雨の向こうで、奈落の天井が——薄く、透けてた。
今まで一度も見えなかった、天井の向こうの色が、見えてた。
朝の、色だった。
文字の雨の中に、あの男が、立ってた。
マーネ。降る文字に、掌を差し出して——何かを、待つように。長いこと、待つように。
掌には、何も、降りてこなかった。
男は、掌を見て、それから、閉じた。閉じた拳の中に、何もないことを、確かめるみたいに。その背中は、何も言わなかった。俺も、何も聞かなかった。
「……なあ、ノボ」
隣で、Aが、同じ背中を見てた。
「俺とあいつの違いはな。……たぶん、列が伸びたか、伸びなかったか。それだけだ」
どういう意味だ、と聞く前に、Aは歩き出してた。聞いても、笑うだけだったろう。
先輩冒険者Aのメモ
※現実世界の諸君へ。祭りのあとの朝ってのはな、寂しいもんと相場が決まってる。——今回のは、ちょっと違ったわ。




