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第88話「署名」


 『——それで』


 長い沈黙のあと、獣が、顔を上げた。


 『僕を、どうするの。消すの、消さないの』


 部屋の隅の影たちも、俺を見てた。完璧な書を抱えた俺。百円のノートの俺。膝を抱えた獣。消された版と、ありえた版の、全員が。


 床に、俺の白紙の書が、三冊。


 その横に、いつの間にか——今の書も、あった。白い、俺の四冊目。奪われたんじゃない。ここに、還ってきてたんだ。全部の書は、最初から、この六畳から出発してたんだから。


 俺は、四冊を、拾い上げた。


 重ねた。


 そして、ペンを、抜いた。


 『……何、するの』


 「決めた」


 一番上の白紙を、開く。枠線は、消えてる。構わない。枠線ってのは、引くものだ。最初の誰かが、そうしたように。


 線を、引いた。


 枠を、作った。枠の内が、今日だ。


 そして、書いた。震える手で。三冊分の白紙と、六畳の獣と、隅の影たちと、俺自身に宛てて。一文字ずつ。彫るみたいに。


 ——消さない。


 獣の息を呑む音が、した。


 ——お前は、間違えた。壊した。喚いた。恥だった。全部、事実だ。消したい夜が、俺に何百回あったかも、事実だ。


 ——それでも。


 ——消さない。──お前は、生きるのに本気だった。


 ——本気の生き方を間違えただけの奴を、なかったことにするのは、俺の書の流儀に反する。失敗を正直に書くのが、俺の書だ。お前は、俺の書いた中で最大の、正直な失敗だ。


 ——だから、載せる。全部。玄関の声も。二十七通も。波も、底も、獣も。


 ——俺の書に、お前の章を作る。白紙のままにしない。誰にも消させない。俺にも、だ。


 書き終えて。


 最後の行の下に、俺は、署名した。


 ノボ・ケンショウ、と書きかけて——手が、止まって——それから、笑ってしまった。ここまで来て、まだ、こっちの名前で署名しようとしてた。六畳の部屋で。母の手紙の前で。ふさわしい名前は、決まってるだろ。


 検証、昇。


 書いた瞬間だった。


 二つの名前が、紙の上で、光った。


 ノボ・ケンショウ、の文字が——ほどけた。


 インクが、生き物みたいに、紙から浮く。の。ぼ。け。ん。しょ。う。六畳の空中で、文字たちが、ゆっくり、回り始めた。


 何が、起きてる。分からないまま、目が、離せなかった。文字は回りながら、順番を、探してた。何百年も前から決まってた席に、一文字ずつ、着いていくみたいに。


 ぼ。


 う。


 け。ん。の。


 し。


 ————ょ。


 「————は、」


 俺の名前は。


 最初から。


 ぼうけんのしょ、だったんだ。


 書が消えるたび奈落で目を覚ましてた男は——俺自身が、書だったんだ。消されても、白紙になっても、俺という書は、ここにいた。ずっと。破損はしても、削除は、されてなかった。


 署名が、光になって、四冊に沈んだ。


 四冊の書が——一冊に、綴じ直されていく。白紙のページに、文字が、還ってくる。岩、一つ。動かした。から始まる全部が。消えた三冊分の日々が。そして新しく、獣の章が。ページとページが、見えない糸で、結ばれていく。分かたれたものが、結ばれて、初めて——生まれる。


 そして——綴じ直しと同時に、俺の身体から、何かが、抜けていった。


 三冊分の技。積層の火力。俺の知らない剣筋、俺の教わってない足運び、三人分の俺が貸してくれてた全部が——腕から、腰から、指先から、静かに、引いていく。


 ……ああ、そうか。これが値段か。


 載せたものは、技じゃなくなる。物語になる。章になった俺たちは、もう俺の腕には住まない。書の中に住む。何百時間ぶんの積層——惜しくない、と言えば嘘になる。喉の奥が、一瞬、それを掴んで離すまいとした。あれだけあれば、この先どんな敵でも——


 離した。


 あれは、借り物の火力だ。消された俺たちからの、弔い合戦のための貸与だ。弔いは、済んだ。借りたものは、返す。俺は明日から、ただの——よく手入れされた短剣の、男に戻る。


 それで、いい。


 それが、いい。


 六畳が、光で満ちた。


 獣の輪郭が、光の中で、ほどけていく。消えるんじゃない。字に、なっていく。俺の書の、一番重い章の、一行ずつに。


 最後に、獣は——笑った。


 俺の顔で。あの頃には一度もできなかった、静かな笑い方で。


 『…………ん。』


 と、言った。


 聞き覚えのある、一音だった。世界に出席を取る、あの。


 ……お前も、いつか、どこかの列で、あの人とすれ違ってたのかもな。


 光が、収まった。


 六畳に、俺と、一冊の書だけが、残った。分厚い、俺の書。開いてみると、最後のページに、俺の書いてない一行が、あった。俺の筆跡で。いや——俺「たち」の筆跡で。


 ——本日の記録


 ——・ぜんぶ、載った


 壁の彫り文の、最後の四文字が、目に入った。


 ……頼ム。


 「————ああ」


 俺は、血の署名の一枚に向かって、言った。誰かは知らない。知らないままでいい、あんたに。


 「遅くなったけどな。————後半、思い出させたぞ。あんたの夜に」



 (あとがきは、ない。


 ……代わりに、これを読んでるお前の書の、今日の欄。


 一行、空けといたからな。)


(第88話 了)


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