第92話「次に眠ったら」
その感覚に気づいたのは、Aが消えた夜だった。
眠くならないんだ。
正確に言う。眠れないんじゃない。身体は疲れてる。なのに、眠りの底が——浅くなってた。目を閉じると、瞼の裏に、もう、六畳の朝の光の色が、透けて見える。奈落の天井と、同じ透け方で。
署名を済ませた書は、綴じ直された。二冊で一冊だったものが、正真正銘の、一冊になった。ってことは——書き手も、二人でいる理由が、なくなったってことだ。
次に眠ったら。
たぶん、俺は、向こうの朝で目を覚まして——もう、こっちには、戻らない。
理屈じゃなく、書の仕様として、分かった。岩を三つ動かした朝と、同じ確度で。
◇
翌朝、俺は、それを全員に話した。
今度は、誰も驚かなかった。ガルドは「であろうな」と頷き、ヴァーノは「まあ、そういう流れだわな」と天井の透けた朝色を見上げ、ミナは、泣くかと思ったら、泣かなかった。
「——じゃあ、急がないと、ですね」
「急ぐ?」
「ノボさんが眠くなる前に、やることが、いっぱいあります。ガルドさんの出発も、ヴァーノさんの開店準備も、私の、あれも……それに、最後にみんなで、登るんですよね? 上まで」
そうか。
俺の帰還は、こいつらにとって、喪失の話じゃないのか。段取りの話なのか。……いや、違うな。喪失の話を、段取りの話として扱ってくれてるんだ。俺が一番受け取りやすい形に、翻訳して。
いつの間にか、翻訳される側になってた。
「——ああ。全員で、登ろう」
眠気は、少しずつ、近づいてた。砂時計の砂みたいに、静かに。
その足で、ギルドに寄った。最後の報告のつもりだった。
「長い依頼に出る」と、俺はロゼに言った。「戻りは——分からない」
ロゼは、羽根ペンを、置いた。
いつもの「またあしたー!」が、来なかった。彼女は台帳の受付印を、俺の報告書に、いつもより時間をかけて押して、それから、顔を上げた。
「————またあした、って言ってください」
真顔だった。初めて見る顔だった。
「……お願いします。私、それで、回ってるので」
それで回ってる、の意味を、聞かなかった。百年分の台帳を読んできた娘が、毎日、冒険者に「またあした」と言わせる意味を——聞いたら、たぶん、この娘の何かを壊す。
「————また、あした」
俺は、言った。嘘になるかもしれない五文字を、分かってて、言った。祈りに付き合うのは、嘘とは、別のものだ。
ロゼは、ぱっと、いつもの顔に戻って、「はいっ! またあしたー!」と手を振った。
振り返らずにギルドを出た。振り返ったら、彼女の横顔がどんなだったか、見えてしまう気がした。
残りの夜を、数え始めた。
先輩冒険者Aのメモ
(空白)




