幕間「夜の書記」
眠くなる前に、片付けたい用事が、ギルドにあった。
夜も更けてから行ったのは、昼間のギルドはまだ祝勝の騒ぎが残ってて、落ち着いて台帳の写しを頼める空気じゃなかったからだ。
夜のギルドは、静かだった。受付は無人——のはずだった。
奥の台帳室から、声がした。
小さな、読み上げる声。扉が細く開いてて、灯りが漏れてた。俺は、覗くつもりはなかった。なかったが、声の中身が耳に入った瞬間、足が止まった。
「——……『本日の記録。東の坑道、踏破。ラドと、祝杯』……ふふ。ラドさん、この日、飲みすぎて翌日の欄が白いんですよね……」
ロゼだった。
いつも結い上げてる髪が——下ろされてた。金色が、灯りの中で、静かに揺れてた。下ろした姿を見たのは、初めてだった。
台帳室の床に座り込んで、古い台帳を膝に広げて、読んでた。声に出して。丁寧に。誰も、聞いていない部屋で。
死んだ冒険者たちの、誰も読まなくなった記録を。
……いや。
誰も聞いていない、は、正確じゃなかった。
部屋の隅の、灯りの届かない椅子に——男が、座ってた。
マーネだった。
目を閉じて、ただ、聞いてた。ロゼは客の存在に気づいてるのかいないのか、読み続けてた。読み終えた一冊を閉じて、次の一冊を開く、その短い静寂のあいだに——男が、ぽつりと、言った。
「…………片手の声か」
誰に言うでもない声だった。
「両手を打てば、音がする。では、片手の声とは。————くだらん問いだと、思っていたよ。何百年もな」
男は、目を開けて、台帳の山を見た。
「……今、聞こえたよ。A」
俺は、扉の前から、静かに離れた。あれは、俺が聞いていい独り言の、ぎりぎり外側だった。用事は、明日でいい。
◇
数日後、宿の爺さんが、妙なことを言った。
「近頃な、夜通し、何かを書いとる客がおってな」
「……客?」
「歳の読めん男よ。紙を分けてくれと言うから、分けてやった。何を書いとるのかは、聞かん。ただな——」
爺さんは、皿を拭く手を、少しだけ、緩めた。
「——書き出しだけ、ちらと見えた。『顔は、もう霞んでいる。笑い声は、覚えている』……そう、始まっとったよ」
誰の話かは、聞かなかった。
この宿で覚えた作法だ。それに——あの書き出しの続きを書ける権利は、世界でたった一人にしか、ない。
後日、大階段の登り口で、あの男を見た、という話を聞いた。一段目に足をかけて、長いこと天井を見上げて、それから、降りていったと。すれ違った冒険者が「登らないのか」と聞いたら、こう返ったそうだ。
「————もう少し、夜の片付けをしてからな」
先輩冒険者Aのメモ
(空白)
(……いや、一行だけ。中の人から。————届いたわ、あの問い。何百年越しにな。w)




