第93話「それぞれの朝」
残りの夜で、俺たちは、身辺を片付けた。
ガルドは、武具を打ち直しに出した。地上の武闘大会とやらに、本気らしい。「奈落帰りの見切り、地上の連中に見せてくれるわ!」と息巻いて、それから、ふと真顔になって、言った。
「……時にノボよ。儂の故郷の親父の話、覚えておるか」
「折れた剣は、いつでも打ち直してやる、だろ」
「うむ。……儂はあの言葉を、貴様に譲る。向こうで、折れそうになったらな——儂の書のどこかで、儂が同じことを言っとると思え。儂の書に、貴様は永住しておるのだからな」
ヴァーノは、店の看板を彫ってた。〈ヴァーノの地図と定石の店〉。——のはずだが、彫られた字は〈ヴら一ノの地図ヒ定石の店〉に見えた。四節詠唱を修めた男の字が、壊滅的だった。全員が沈黙し、ミナがそっと彫り直しを申し出て、ヴァーノは「僕の字は前衛芸術なんだよ!!」と三分抵抗して、任せた。開店資金は、戦の報酬で、借りずに賄えたらしい。「人生初の、借りてない元手だぜ」と、あいつは看板の字を、何度も撫でた。
開店前だというのに、噂を聞きつけた大商人が来た。決戦の記録と定石の独占買付。提示された額は、店の十年分の売上に相当した。
ヴァーノは、聞き終えてから、にっこり笑って、言った。
「————金なら、要らないよ」
一度、言ってみたかったんだよなあその台詞、と、あいつは商人が帰ったあと、しみじみ言った。「これは売り物じゃなくて、返し物なんでね。……僕が三日迷った街の、地図のない誰かに、返すやつなの」
内見に来てたミナが、開店祝いの試供品——果実の搾り汁を、一口、飲んだ。
「————うまーー!!」
店の前で、腹の底からの五文字が出た。人生初の、酒場の(まだ開店してないが)一杯が、それだった。全員が笑って、ヴァーノが「開店一号の感想、いただきましたァ!」と、看板の裏にその五文字を彫った。字は、壊滅的だった。
「大将。向こうでもし、その、あれだ。……余白に書くしかない夜が来たらよ」
「ああ」
「——三行でいいからな。三行なら、書けるだろ」
俺の定石が、俺に返ってきた。利子付きで。
ミナは、俺に、小さな包みをくれた。開けると、種だった。
「花の、種です。向こうに持っていけるか、分からないですけど……気持ちの仕様として、渡しておきます。ノボさんの窓辺で咲いたら、それ、私の分身なので。水、忘れないでください」
「……ああ。忘れない」
「あと!」ミナは、袖を——掴まずに、俺の目を、真っ直ぐ見た。「約束、覚えてますか。隣に座る人の話」
「私たちの分まで、俺が、俺の隣に座る」
「はい。……検証しますからね。私、書に書きましたから。『ノボさんは約束を守る人』って。——ノボさんの仕様なら、書かれたことは、本当になるんですよね?」
……この子は、いつの間に、書の仕様で人を縛る技を覚えたんだ。
最強の呪印だった。ありがたく、刻まれておいた。
ヴェラは、西へ発つ朝、俺のところに来て、手を差し出した。
「じゃあ、今度こそ。——いい冒険を」
「ああ。いい冒険を」
それだけだった。二回目の別れは、一回目より、ずっと軽かった。軽くできることが、俺たちの積んだものだった。
去り際、彼女は一度だけ振り返って、少し笑った。
「——あなたの向こうの世界の話、私の書に書いておいたわ。『彼は、朝へ帰った』って。……読み合いの理屈が本当なら、あなた、消えないわよ。どこにいてもね」
先輩冒険者Aのメモ
(空白)




