第94話「ん。」(二)
最後の夜は、宿で過ごすと、決めてた。
晩飯は、いつも通りだった。爺さんの粥と、肉と、ミナの花が卓にあって、ガルドが三人前食って、ヴァーノの軽口が冴えて。明日の朝、全員で最後の登りに出る。今夜は、その前夜。
客が引けて、片付けが終わって。
セレナが、カウンターの端に、座った。
いつも通り、一杯だけ、注いで。
一口、飲んで。
「ん。」
——鳴った。
今夜は、鳴った。
俺は、書の整理の手を止めて、その一音を、聞いた。世界に出席を取る音。今日もいるな、の判子。あの決戦前夜に鳴らなかった点呼が、今夜は、当たり前の顔で、鳴った。
当たり前の顔で鳴る、ということの、値段を——俺はもう、知ってる。
「……セレナ」
「ん?」
「明日、発つ。……で、たぶん、もう、来ない」
「ん。知ってる」
薪割りの音みたいな、返事だった。
俺は、少し迷って——聞かないと決めてたことの、外周だけ、聞いた。
「あんたは、これからも、ここに?」
「んー。時々ね。ふらっと来て、ふらっと帰る。……向こうにも、やることあるし」
それから彼女は、俺の手元の湯呑みを見て、ふ、と言った。
「——ん。三杯目、我慢する人だ」
「……は?」
「下の宿で。粥、二杯で止めてたでしょ。おいしそうな顔のまま」
————九話……じゃない、あの夜だぞ、それ。
まだ名前も知らなかった頃の、ただの食堂の一晩の、俺の手元。書いてもいない。誰も見てないと思ってた。この人は、聞かないし、教えないし、書かない。——ただ、見てて、覚えてる。それだけの人だった。それだけの人が、一番、恐ろしくて、ありがたかった。
「……よく覚えてるな、そんなの」
「ん? 普通だよ?」
普通じゃないんだよなあ、それが。
向こう。
その一語を、彼女は、天気の話の重さで、置いた。俺は、それ以上、掘らなかった。帰還済みの側、と、いつか誰かが言ってた。彼女の「向こう」がどこの朝なのか——確かめる権利は、俺には、ない。
代わりに、俺は、ずっと確かめたかったことを、一つだけ、確かめた。
息を、吸った。
彼女の周りの空気には、いつも、あれがある。すれ違いざまに、いつも掠める、あの——知ってる匂い。どこで知ったのか、ずっと出てこなかった匂い。
今夜、出てきた。
六畳の記憶の、底の方から。コンビニの、レジの列。俺が酒を買わなかった夜。前に並んでた誰かの袋から、ふわりと香った——あの匂いだった。
たまたま、列が伸びただけだ。あの夜、俺は、そう書いた。
……たまたま、か。
俺は、口を、開きかけた。
あの夜、あんた——
閉じた。
言って、どうする。礼を言うのか。何の礼を? 「並んでてくれて、ありがとう」? 彼女は何もしてない。ただ、いただけだ。いてくれた、ということに名前をつけて、恩という札を貼って、貸し借りの帳簿に載せた瞬間——あの夜の「たまたま」は、死ぬ。
恩は、名づけない。
この世界で、俺が最後に覚えた定石だった。
「————世話に、なった」
結局、出てきたのは、それだけだった。
セレナは、杯を置いて、俺を見て、笑った。
いつもの、意味ありげじゃない方の、笑い方で。
「ん? 普通だよ?」
……ああ。
そうだな。普通だ。あんたのやったことは、全部、普通のことだ。薪を割って、水を運んで、粥を運んで、列に並んで、一杯だけ飲んで、寝る。——その普通を、あんたの高さでやってのける人が、世界に何人いるのかって話は、しない。しないのが、作法だ。
「おやすみ、セレナ」
「ん。……いい朝を」
いい朝を。
その言葉を、彼女の口から聞くのは、初めてだった。
たぶん、彼女なりの——餞別、だったんだと思う。名づけない側の人の、名づけない餞別。
先輩冒険者Aのメモ
(空白)




