第85話「最初の一枚」
芯の中は、静かだった。
戦場の轟音が、嘘みたいに。白い、丸い、広間だった。石造りの——回復所の広間に、少し似てた。
壁一面に、書が、貼られてた。
定石の壁——の、原型みたいな眺めだった。ただし、貼られてる書は、どれも、途方もなく古い。繊維の影。文字の亡霊。奈落の全年月ぶんの、最古層の記録たち。
その中央に、一枚。
俺は、それを、知ってた。
大階段の壁で見た、最初の一枚と——同じ書式。本日の記録、の枠線。そして署名の位置に、あの、黒く変色した染み。
血の、署名。
いや——こっちが、本物か。大階段のあれは、写しだったのか。
一枚の周りにだけ、文字が、彫ってあった。紙じゃない。壁の石に、直接。爪を立てるみたいな彫りで。……あの彫り方も、知ってる。泉の石碑と、同じ深さの執念だった。
——初メニ、線ヲ引イタ。
——線ノ上ト下ガ、分カレタ。ソレガ、枠線デアル。
——枠ノ内ガ、今日デアル。枠ノ外ハ、マダ混沌デアル。今日ヲ書ケ。書イタ分ダケ、世界ハ固マル。
——底ノ下ニ、沈ム場所ヲ掘ッタ。届カヌ祈リノ、置キ場デアル。
——落チル者ヨ。死ヌナ。
——底ニ、夜ヲ掘ッタ。眠レ。休メ。書ケ。
——強クナレ。定石ヲ残セ。次ノ者ノタメニ。
——ソシテ。
そこで、彫りは、一度、途切れてた。
ずっと下——床に近い場所に、続きが、あった。彫りが、浅くなってた。力尽きかけた手の、最後の分。
——ソシテ、忘レルナ。
——朝ハ、外ニアル。
——夜ニ、住ムナ。
——……頼ム。
俺は、その最後の四文字の前に、長いこと、立ってた。
作った奴が、いたんだ。この夜を。落ちる者が死なないように、掘った奴が。善意で。祈りで。血の署名で。——そして、その本人が、一番最後に、震える手で彫ったのが、「夜に住むな」だった。
装置は、作り主の祈りの、前半だけを、覚えたんだ。死ぬな。眠れ。休め。——そこまでを、完璧に。後半の「そして、出ていけ」を、覚え損ねたまま、何百年、回り続けた。
優しさで、できてる。あの獣の言った通りだった。
欠けた優しさで。
……あんた、誰だったんだろうな。
血の染みは、何も答えなかった。彫りの深さだけが、答えの代わりに、そこにあった。誰かは、分からない。分からないが——この彫り癖と、この署名の流儀に、俺は、心当たりが、なくは、なかった。
確かめる術は、ない。確かめないことに、した。
名前より確かなものが、もう、ここにある。
広間の、奥。
最初の一枚の、さらに向こうに——小さな、扉があった。
扉の前に、俺の書が、落ちてた。白紙の、俺の書が。いつの間に。……いや、最初から、か。あれの芯は、ずっと、ここだったのか。
扉の向こうから、声がした。
俺の、声が。
『————来たの?』
先輩冒険者Aのメモ
(なし)




