第9話「宿屋を舐めるな」
最初にそれを見つけたのは、ヴァーノだった。
「……おい、あれ。建物じゃないか?」
岩壁の窪みに、はまり込むように、それは建っていた。
石積みの壁。木の扉。扉の上には、色褪せた看板。
【宿】
一文字だけ。潔い。
「奈落に宿? 罠だろう」
「罠にしては手が込みすぎだ。……いや、待て」
俺の引き出しが、また勝手に開いた。今度のは、妙に温かい引き出しだった。
──奈落の宿は、舐めるな。
それだけ。手順も注意書きもない。舐めるな、だけ。
扉を開けると、暖炉の匂いがした。
カウンターに、枯れ木みたいな爺さんが一人。俺たちを見ても驚かず、「三人かい」とだけ言った。
一泊の値段は、拍子抜けするほど安かった。
「泊まる。──三泊で」
「「は!?」」
ガルドとヴァーノの声が揃った。
「三泊!? おい、先を急ぐんじゃなかったのか!」
「僕らの路銀を勝手に……いや安いけども!」
説明が難しかった。ただ、引き出しがそう言ってる。ここは、急ぐ場所じゃなくて、積む場所だと。
ちなみに俺は、この宿の立地を分析して、全部、外した。
「なんでこんな場所に宿がある? 客は下層帰りの生還者……いや、数が合わない。物資の搬入路も見当たらない。採算の取れる立地じゃない。となると、何か裏の——」
「兄さん」爺さんが、皿を拭きながら言った。「考え事は、飯の後にしな。冷める」
反論できなかった。その日、考察は全敗で、粥は全勝だった。
夕飯は、爺さんの粥だった。
具は、乾し肉の欠片と、白いキノコ。俺が三日炙り続けたのと同じキノコのはずなのに、味が三階層くらい違った。出汁ってものの存在を、俺は思い出した。ガルドは四杯食い、ヴァーノは「はー……」としか言わなくなり、俺は二杯で止めて、三杯目を我慢した理由を自分でも説明できなかった。うますぎるものは、少し、怖い。
その夜、俺は久しぶりに、底の見えない眠りに落ちた。
——夢を、見た気がする。
天井だった。岩じゃない。白っぽくて、平らで、隅の方に、雨漏りみたいな染みのある——知らない天井。知らないはずなのに、胸の奥が、変に軋んだ。懐かしい、に似た軋み方だった。
目が覚めたら、中身はほとんど流れて消えてて、染みの形だけが、まぶたの裏に、少しだけ残ってた。
──翌朝。
「なんだこれは」
ガルドが自分の書を開いて、固まっていた。
覗き込む。書のいちばん上、体力の最大値を示す数字が──増えていた。
回復じゃない。最大値が、だ。
「僕もだ! おいおいおい、何が起きてる!?」
俺は自分の書を確かめて、静かに納得した。
ーーーーぼうけんのしょーーーー
本日の記録
・とてもよく眠った
・器が、少し広がった
ーーーーーーーーーーーーーー
削った体力は、飯と薬で戻る。
でも、器そのものは──ちゃんとした寝床で、ちゃんと眠った夜にしか、広がらない。
「急がば寝ろ、ってな」
声がした方を見たら、いた。
食堂の隅の席。フードの男が、湯気の立つ椀を前に、当たり前の顔で座ってた。
「A!? お前いつから」
「昨日から。お前らが値段に騒いでる頃には二泊目だったw」
相変わらず、気配がない。
「急がば寝ろ。……誰の言葉だと思う?」
「知らん。ことわざだろ」
「ふうん。まあ、そういうことにしとくかw」
Aは椀の中身をすすって、それきりその話をやめた。
三泊した。
体の芯の、抜けたことにも気づいてなかった疲れが、抜けた。
あと、妙なことが一つ。二泊目の夜、暖炉の前で、気づいたら爺さんに、水場の暮らしの話を延々としてた。岩の数まで。……何を喋ってんだ、俺は。初対面の宿の親父に。慌てて口を閉じたら、爺さんは「ほう」とだけ言って、粥のおかわりを、黙って置いた。
あの暖炉には、何かある。検証は、しなかった。——したくなかったんだと思う。ガルドの素振りの音が変わった。ヴァーノの軽口の切れが増した。誰も損をしなかった。
出発の朝、宿代を払うついでに、カウンターの帳簿がふと目に入った。
古い宿泊客の名前が、ずらりと並んでる。
その中のひとつに、目が留まった。
読めない。掠れてる。
インクが薄いんじゃない。紙ごと、その名前の部分だけが、白く抜けたみたいに掠れてる。
なのに──俺はその名前を、知ってる気がした。
喉まで出かかって、出てこない。夢の中で読んだ本の題名みたいに。
「お客さん?」
「……いや。世話になった」
扉を出るとき、一度だけ振り返った。
帳簿は、もう閉じられていた。
先輩冒険者Aのメモ
※現実世界の諸君へ。宿屋は舐めるな。今夜は寝ろ。




