第80話「世界の声」
白い獣は、でかかった。
でかいだけじゃない。あれは、白の海の全部と、地続きだった。足元から海面に繋がって、堆積の総量を、そのまま背負って立ってる。奈落の底に積もった全年月が、一つの形を選んで、立った——その形が、よりによって、俺の一番醜い版だった。
咆哮が、ふいに、止んだ。
白い巨獣が——道を空けるように、半歩、退いた。
その足元の白の海が割れて、男が、歩いて出てきた。
——空気が、変わった。
獣の咆哮とは、別種の圧だった。音量じゃない。質量だ。戦場の全部の音が、男の歩幅に合わせて、一段、遠くなる。ミナの光の線が、理由もなく、一度、明滅した。ガルドが無言で得物を握り直し、ヴェラの重心が、半歩、沈んだ。誰も号令していないのに、全員が、構えてた。
……ああ。来てしまったのか——と、誰かの喉が、鳴った。俺のだったかもしれない。
普通の男だった。鎧もなく、杖もなく、戦場に立つには楽すぎる服。歳はAより上に見えて、目だけが、途方もなく古かった。男は白の岩層に腰を下ろす前に、一瞬だけ——視線が、白の海の切れ目を、一本、確かめた。退路の確認。俺と、同じ癖で。
男は座って、懐から茶器を出した。この戦場のど真ん中で。茶器は、場違いなほど、使い込まれてた。何百年、誰かに淹れ続けてきた器の、艶だった。二つの湯呑みに茶を注いで、片方を、俺の側の岩に、置いた。
「——冷めないうちに」
……濃い。見ただけで分かる。俺の好みの、濃さだった。頼んでない。教えてもない。
「マーネ、と呼べ。この夜の——管理人みたいなものだ」
「なぜ、出ていく」
男は、茶を一口飲んで、静かに聞いた。獣の咆哮より、その静けさの方が、よほど重かった。
『ここには、夜がある。眠れる岩陰がある。書がある。仲間がいる。定石がある。宿があり、火があり、登る意味がある。——外の朝に、何がある』
「————お前は、誰だ」
「あんたが——奈落の、意志か」
「意志は、あの子だ」マーネは、背後の白い巨獣を、親が子を見る目で見上げた。「私は、番をしているだけだよ。長いこと、ね。……この夜は、落ちる者を受け止めるために掘られた。潰れる者を休ませるために編まれた。——優しさで、できているんだ、ここは」
優しさ。
その言葉に、白の海の声たちが、和した。そうだ。そうだ。ここは優しかった。外は痛かった。ここには手順があった。外は理不尽だった。ここでは強くなれた。外では——
「問おう、登る者」
マーネは、湯呑みを置いて、俺を見た。
『汝は、この夜で、何を得た。仲間。強さ。誇り。回復。愛。——全部、ここで得たものだ。外の朝は、汝に何をくれた。督促の紙と、嘲笑と、鍵のかかった過去だけであろう』
「私はね、登る者。ここから朝へ帰った者たちを、数え切れないほど、見送ってきた。……そして、見てきた。朝に、何をされるかを。回復に報酬をくれない世界に、笑われて、折られて、前より深く落ちてくるのを。何度も。————何度も、だ」
声は、最後まで、静かなままだった。静かなまま、底が抜けてた。
「だから私は、決めたんだ。夜を、完成させる。もう誰も——朝に、殺させない」
「なぜ、出ていく」
「——ここに、いろ」
白の海全体が、その一言で、一斉に、押し寄せた。攻撃じゃなかった。もっと恐ろしいものだった。あれは——抱擁の形をしてた。
「全員、受けるな!! 呑まれるぞ!!」
Aの声が、斜面を貫いた。
ミナの光が、ヴァーノの風が、朗読の声が、白の抱擁を、際どく、押し留める。
俺は、獣を見上げたまま、動けなかった。
反論が、すぐに出なかったからだ。
あいつの言ってることは——半分、本当だ。俺はここで、得た。仲間も、強さも、悲しみ方も、隣の座り方も、全部この夜で。外の朝が俺にくれたものより、この夜がくれたものの方が、多い。数えれば、たぶん、圧倒的に。
ここにいろ。
その誘いが、毒の泉と同じ顔をしてることに、気づくまで——数秒、かかった。
「————A」
「ん」
「あんた、言ったな。岬を閉めてきた、って。……あんたの周回は、ここで、何て答えた」
Aは、薄れた右腕を、だらりと下げたまま、白い獣を見上げてた。
「……答えられなかったよ」
静かな声だった。
「反論できなかった。あいつの言う通りだった。だから俺は——残ったんだ。この夜に。先輩冒険者、なんて名乗ってな。……何周も。何周も」
フードのない顔が、俺を見た。
「——だからよ、ノボ。ここから先は、俺の知らねえ道だ。……頼むわ」
頼むわ、の三文字が、白の照り返しの中に、しばらく、浮いてた。
この男が、誰かに何かを頼むのを、俺は初めて聞いた。何周ぶんの夜を独りで背負ってきた男の、最初の「頼む」だ。安請け合いは、しなかった。頷く代わりに、剣の柄を、握り直した。——それで伝わる相手で、よかった。
先輩冒険者Aのメモ
(なし)




