第73話「白が、来る」
出立の朝、宿の食堂で、最後の粥を食った。
全員が食い終わるのを待って、爺さんは、皿を拭く手を止めた。五十年、落ちてきた者に「座りなさい」と言い続けてきた男が、俺たちを順に見て、一言だけ、言った。
「————立ちなさい」
全員、立った。
背筋が、勝手に伸びた。それが、あの宿の親父の、餞別の全部だった。
◇
決戦の朝は、静かに来た。
最終区画の大斜面。背中に、地上の光。眼下に、奈落の全部。
布陣は、こうだ。最前に俺とガルド。中衛にヴァーノ、術式の要。後衛にミナ、全体の守りの光。遊撃に——
「よう。遅れてねえだろw」
A。フードを、もう被ってない、俺の未来の一本。右腕は肘まで薄れてるくせに、剣を提げて、当たり前の顔で隊列に入った。
「番人はいいのか」
「岬はもう、閉めてきた。……最後の客が、いい問いを置いてったんでな。店じまいの潮時だったのよ」
五人。最下層の岩陰から始まった隊列の、最終形だった。
◇
来た。
音が先だった。底鳴り——じゃない。もっと細かい。何百、何千の、紙をめくるような、囁くような、ざらざらという音の壁。
それから、奈落の底の闇が、白く、染まり始めた。
下の層から、順番に。遠くの岩の稜線が、白く掠れて、輪郭を失って、消えていく。景色ごと、世界ごと、ページの端から囓られていくみたいに。白は、霧の形で、群れの形で、波の形で——最終区画の裾に、達した。
そして、俺は、聞いた。
白の中から。
声を。
何百人分の、重なった、ぶつぶつという声。ほとんどは言葉にならない。でも、ところどころ、聞き取れた。
——かいて。
——よんで。
——けさないで。
——たすけて。
——なんでいきてるの。
——ほんとうは。
——たすけて。たすけて。たすけて。
隣で、ガルドが、得物を握り直した。
「……なあ、ガルドよ」ヴァーノの声が、震えを隠さずに言った。「あんたはさ、怖くねえのか。こういうの」
愚問ォ!! と返ってくると、全員が思った。
「————良い問いだ」
大男は、白の海を見据えたまま、静かに言った。
「怖い。……生まれて初めてかも知れん。昔は何も怖くなかった。守りたいものが、なかったからだ。————守りたいものの数だけ、怖くなるらしいぞ、ヴァーノ。つまり儂は今、人生で一番、豊かだ」
ヴァーノの詠唱の構えが、震えて、止まって、また構え直された。ミナの守りの光が、斜面全体に、静かに広がった。
「……なあ、ノボ」
Aが、白の波を見下ろしながら、言った。
「あれ、どう見える」
「————敵には、見えない」
「だろうな」
「でかい魔獣にも、災害にも見えない。あれは——」
俺は、腰の書に、手を置いた。
「——読まれなかった書の、山だ」
白の先端が、斜面に、触れた。
岩が、掠れて、消えた。
決戦が、始まった。
先輩冒険者Aのメモ
※現実世界の諸君へ。ここから数話、休まず行く。──お前も、ついてこい。
(第4部・決戦開幕。続く)




