第72話「獣の話」
現実の話を、する。この物語で、一番大事な手紙の話だ。
二通目は、三行の返事の、十日後に来た。
今度の便箋は、三枚あった。
——お返事、ありがとう。三回、読みました。
——桜の木を覚えていてくれて、嬉しかったです。
そこまでは、一通目と同じ、静かな字だった。三枚目で、字が、少しだけ変わった。書くかどうか、長く迷った人の字に。
——一つだけ、昔の話を書きます。読みたくなければ、ここで畳んでください。
俺は、畳まなかった。
——あなたが一番荒れていた頃、あなたはうちに来て、お金を貸してほしいと言いましたね。世界を変えられるんだ、と、何度も、何度も。
息が、止まった。
覚えてる。覚えてるに、決まってる。霧の向こうじゃない。あれは、こっちの——検証昇の、消したくても消えない記憶だ。玄関先で、声を張り上げてた。今なら分かる、あの時の俺は波の頂点で、全能で、世界の全部が繋がって見えてて、金さえあれば、金さえあれば全部——
——あのとき、私は、貸しませんでした。ドアも、開けませんでした。
——あなたの中に、大きな獣がいるのが、ドア越しにも分かったからです。あの獣は、お金を食べさせたら、もっと大きくなる。私が助けたら、獣を太らせるだけ。……そう思って、ドアの内側で、膝を抱えていました。
——ひどい母親だと、思われたでしょう。実際、親戚には言われました。それでも、と思って、しませんでした。
——獣は、誰かが倒せるものではないと、思っていました。あなたが自分で、あの子と——獣と、暮らし方を決めるしか、ないのだと。
——だから私にできるのは、待つことだけでした。電話をかけて、出なくても、かけて。手紙の書き方を、何年も考えて。要求をしない文章というのは、難しいですね。五年、練習しました。
五年。
返事は要りません、の一枚に、五年。
——先日の三行のお手紙で、分かりました。
——獣は、いなくなってはいないのでしょう。でも、あなたはあの子と、暮らし方を決めたのですね。字で、分かりました。あの頃のあなたの字は、獣の字でした。今度のは、あなたの字でした。
——会いには、行きません。あなたも、来なくていい。
——ドアは、あの日から一度も、鍵をかけていません。それだけ、知っていてください。
——飯を、食べなさい。
◇
読み終えて、最初に出た言葉は。
「————なんでだよ」
だった。
感謝じゃ、なかった。声は、自分でも驚くくらい、尖ってた。
俺は便箋を、机に、伏せた。伏せて、立ち上がって、六畳を歩き回った。三歩で壁だ。三歩歩いて、折り返して、また三歩。獣が檻の中でやる動きだと、頭の隅で分かってた。
なんで、待てるんだよ。
俺はあんたの玄関で、獣だった。金をせびって、怒鳴って、世界を変えるとか喚いて——あれから何年、着信の一本も取らなかった。見限っていい材料なら、山ほど渡した。俺が親でも、見限る。それだけのことを、した。
なのに、鍵を開けて待ってた? 五年、手紙の練習を?
——割に、合わないだろ。
愛されるに値することを、俺は、何一つしてない。してない人間が、これを受け取るのは——何かの、間違いだ。帳簿が、合ってない。呪印なら数えられる。借りなら返せる。でもこれは、桁が違う。返す当てのない借りを、黙って積まれるのは——
「……そんなに簡単に、許すなよ」
口から、出てた。
許される側が、許しに、文句を言ってた。無茶苦茶だ。無茶苦茶だと分かってて、止まらなかった。
気づいたら、便箋を、掴んでた。握り潰す寸前の、指の形で。——慌てて、離した。離して、皺を、手のひらで何度も、伸ばした。伸ばしながら、自分が泣いてるのに気づいた。怒鳴りたいのか、謝りたいのか、子どもみたいに抱きしめられたいのか、全部なのか。……感情ってのは、こんなに同時に来るのか。回路が開くってのは、こんなに——うるさいのか。だってそうだろう。「見捨てられた」なら、俺は被害者でいられた。待たれてたと知った瞬間、五年分の——ドアの内側の、膝を抱えた夜の全部が、こっちの負債に変わる。楽になるどころか、重いんだよ。これは。
受け取れない。
俺には、これを受け取る器が、まだ——
歩き回るのをやめたのは、伏せた便箋の、最後の一行が、頭から離れなかったからだ。
——飯を、食べなさい。
説教じゃない。許しの言葉ですらない。謝罪の要求でも、帳簿の清算でもない。ただの、飯の心配。息子が獣だった頃から、たぶん一度も変わってない、一番小さくて、一番古い一行。
その一行だけが——抵抗の隙間から、入ってきた。
……ああ、そうか。
これが、受け取るってことの正体か。全部を一度に飲み込む綺麗な動作じゃない。抵抗ごと、暴れる胸ごと、「なんでだよ」ごと——それでも、飯の一行だけは今夜、腹に入れること。受け取りってのは、こんなに、みっともなくて、うるさくて——生きてる動作だった。
俺は、机に戻って、便箋を、封筒にしまった。一番いい場所には、まだ置けなかった。引き出しに、入れた。開け閉めできる場所に。
それから、百円のノートを開いて、正直に、書いた。
——手紙、二通目。ぜんぶは、受け取れなかった。
——「なんでだよ」と言った。まだ言ってる。
——飯の一行だけ、受け取った。今夜は、それでいいことにする。
——残りは……分割で、受け取る。呪印と同じだ。一気にやろうとした奴から、死ぬ。
書き終えて、飯を、食った。
冷や飯に、卵だけの、雑な飯だった。食いながら、なんでか、また少し泣いた。怒りながら食う飯と、泣きながら食う飯の中間の、名前のつけようのない飯だった。名前は、つけなかった。
食い終えた茶碗を、洗った。水を出して、隅々まで、丁寧に。茶碗一個にこんなに時間をかけたのは、生まれて初めてだった。手を動かしてないと、何かが、溢れそうだったんだ。
茶碗は、たぶん、人生で一番、綺麗になった。
その夜、奈落の書に、向こうから一行、届いてた。
——装備、まだ途中。でも、出る。
ああ。それでいい。
完成した装備で出る戦なんて、最初から、一度もなかった。
先輩冒険者Aのメモ
(なし。……今日のは、俺が何か足していい回じゃねえわ)




