第71話「ん。が、鳴らない夜」
決戦の備えは、三日で整えた。
迎え撃つ場所は、最終区画の大斜面。地上の光を背にして、登ってくる白を、正面から受ける。逃げ道は、上に一本だけ。つまり、逃げ道はない。定石外の布陣だが、あれ相手に退路の定石は意味がない。あれは、奈落全部だからだ。
出陣は、明朝。
最後の夜を、俺たちは、宿で過ごした。
飯は、いつもより豪勢だった。爺さんが黙って肉を増やし、ガルドが三人前食い、ヴァーノの軽口が冴え、ミナが笑った。決戦前夜のパーティの、正しい夜だった。
セレナは、いつも通り、働いてた。
いつも通り、皿を運び、いつも通り、片付けて、いつも通り、俺たちの馬鹿話に、通りすがりに一言だけ突っ込んで(「肉は逃げないよ?」)、いつも通りの夜だった。
飯のあと、俺は宿の裏の段で、夜の空気に当たってた。
セレナが、片付けの途中で出てきて、隣に、座った。
少し、近かった。手を岩に置いたら、指の距離が、拳一つ分もなかった。動かせば、届く。動かさなければ、届かない。俺は、動かさなかった。彼女も、動かさなかった。動かさない、を、お互いが選んでるのが——なんでか、分かった。
「……星、ないね」と彼女が言い、「天井だからな」と俺が言い、それで会話は終わった。
終わったのに、どっちも、立たなかった。
夜気が、薪の匂いを運んでた。厨房の方から、遠く、皿の音。誰かの笑い声。世界がちゃんと回ってる音の、一番外側の席に、二人で、座ってた。
しばらくして、二人、ほぼ同時に、少しだけ笑った。何がおかしいのかは、どっちも言わなかった。名前をつければ、たぶん、何かが変わる。変えないでいることを、二人で決めてる——この、決めてることすら口にしない感じを、なんと呼ぶのか、俺は知らない。知らないままで、いい夜だった。
彼女が先に立って、「片付け、戻るね」と言った。それだけだった。
客が引けて、片付けが終わって、彼女はカウンターの端に座った。
いつも通り、一杯だけ、注いだ。
一口、飲んだ。
「————」
……ん?
俺は、書の整理の手を、止めた。
今、何かが、欠けた。
何が欠けたのか、すぐには分からなかった。部屋の音は揃ってる。火の音。爺さんの洗い物の音。遠くのガルドのいびき。全部ある。全部あるのに、何かが——
セレナは、二口目を飲んで、杯を置いて、「おやすみ」と言って、奥へ消えた。
いつも通りの背中だった。
俺は、残された静けさの中で、しばらく、考えてた。何が欠けてたのか。指の先まで来てるのに、掴めない。歯に挟まった一音。夢の中で読んだ本の題名——
寝床に入って、目を閉じて、明日の布陣を三周して、それでも掴めないまま、眠りに落ちかけた——その瞬間だった。
分かった。
「ん。」が、なかった。
一口目の、あの、世界に出席を取る一音。この宿に来てから毎晩、欠かさず聞いてきた、幸福の点呼。今夜だけ、鳴らなかった。
俺は、暗い天井を見た。
彼女は、いつも通りに飲んで、いつも通りに片付けて、いつも通りの声で、おやすみと言った。完璧に、いつも通りだった。——点呼、一つを除いて。
教えない女は、揺れすら、教えない。
揺れの理由に、俺が思い当たるのは、一つしかなかった。明朝、俺たちは、帰ってこないかもしれない戦いに出る。……いや。もう一つ、あるか。あの人が「帰還済みの側」なら——勝った後、俺がどこへ帰るのかも、たぶん、俺より先に、分かってる。
俺は、目を閉じた。
明日、生きて帰って、あの点呼をもう一回聞く。
布陣の目的に、一行、追加された夜だった。
先輩冒険者Aのメモ
※現実世界の諸君へ。毎日ある音が、ある日ないこと——それに気づける奴になれ。──気づく資格は、毎日ちゃんと聞いてた奴にしか、ないんだけどな。




