第69話「底鳴り」
奈落の異変は、静かに、確実に、進んでた。
底鳴りは、もう毎晩だ。最初は数日おきだった間隔が、詰まってきてる。鳴るたびに、街の全員の書に、あの「囓られたような掠れ」が増える。
中継街から、伝令が駆け込んできたのは、その朝だった。
「道が——下層への連絡路が、三本、落ちた!!」
「崩落か!?」
「違う、違うんだ先生……! 崩れたんじゃねえ。————白く、なったんだ。通路の岩肌が、書のページみてえに掠れて、触れたら、足場ごと、消えた。この目で見たんだ、俺は……!」
歴戦の伝令の手が、震えてた。
奈落が、下から、白紙になっていってる。
「……調べてきたぜ」
物見に出てたヴァーノが、青い顔で戻ってきた。
「下の層、ひでえことになってる。逃げてきた連中が言うには——『白いのが、登ってくる』と。形は、はっきりしねえ。霧みたいでもあり、群れみたいでもあり……ただ、共通してる証言が一個ある」
「なんだ」
「————声がするんだと。白いのの中から。何百人分もの、ぶつぶつ言う声が」
夜。俺は独りで、野営地の端に立った。
眼下に広がる、奈落の深い闇。あの底のどこかから、それは登ってくる。俺の消えた書の沈殿。俺だけじゃない——この世界の全員の、消された記録の、堆積が。
「——来るよ」
声は、隣からした。
黒獣が、いた。定位置の十歩じゃない。すぐ隣に、座ってた。そして初めて、あいつの声に、俺をえぐる意図がなかった。
「僕の——書かれてない、兄弟たちが」
「……兄弟?」
「僕はさ、書かれたんだよ。お前に。名指しで。『黒い獣に会った』『一番こたえた』って。……書かれたものは、形を持てる。距離も取れる。会話も、まあ、できる。——でも、書かれなかったものたちは」
黒獣は、底の闇を見下ろした。
「形がないまま、積もるしかない。積もって、押し潰されて、混ざって、それでもどこかで、読まれたがってる。……あの白いのはね、怒ってるんじゃないよ。あれは——」
獣は、俺の声で、静かに言った。
「——全員ぶんの、言えなかった方の言葉が、鳴ってるんだよ」
底鳴りが、その夜も、鳴った。
今までで、一番、近くで。
先輩冒険者Aのメモ
(もうすぐだ。……準備しとけよ、いろいろと)




