第68話「三行の返事」
返事は要りません、と書いてあった。
だから逆に、書けると思った。要求されてないものなら、失敗がない。……と思ったのが甘かった。
便箋を買ってきて、机に置いて、ペンを持って——三十分、白かった。
書くことが、なさすぎた。いや、逆だ。ありすぎた。あの夜の謝罪。金の清算の話。今何をしてるか。これから何をするか。病のこと。全部書くべきで、全部、一枚に載る重さじゃなかった。
書いては、丸めた。丸めた紙が、五個になった。
六枚目で、俺は、書くのをやめた。
正確には——「ちゃんとした手紙」を書くのを、やめた。
定石を思い出せ。一気にやろうとした奴から、死ぬ。呪印は、一番小さい印から。手紙も、たぶん、同じだ。全部を載せる一枚じゃなく、今日運べる分だけの一枚。
書けたのは、三行だった。
——手紙、読みました。
——飯は、食っています。
——桜の木、覚えています。
以上。謝罪なし。説明なし。近況の詳細もなし。小学生の連絡帳みたいな三行だ。
でも、嘘が、一行もなかった。
投函は、翌朝にした。ポストの前で、一回だけ深呼吸して、入れた。指を離れる瞬間、封筒がやけに重く感じて、落ちる音がやけに軽かった。
◇
帰り道、気づいたことがある。
ポストからアパートまでの道の、景色が、妙に鮮明だった。
電柱の錆。塀の上の猫。パン屋の換気扇の匂い。ずっと歩いてきた道なのに、今日初めて、道が「見えた」気がした。
……ああ、これか。
現実で一歩、奈落で一里。あの法則の、こっち側の実感は、こういう形で来るのか。地図が広がるんじゃない。——解像度が、上がるんだ。
パン屋の隣の家のプランターに、名前も知らない小さい花が、咲いてた。……いや。昨日も、咲いてたんだと思う。今日、初めて、色が目に刺さった。モノクロの写真の、そこだけに、後から色を差したみたいに。
世界の彩度ってのは、外の設定じゃなくて——こっち側の設定だったらしい。
その夜、奈落の書に、また一行、増えてた。俺の筆跡で、俺が書いてない行が。
——三行、出せた。
俺はその下に、いつもの様式で今日の分を書いて、最後に、こっちからも一行、返しておいた。
——上出来だ。次は四行でいい。急ぐな。
どっちがどっちに書いてるのか、もう、分からなかった。分からなくて、よかった。
先輩冒険者Aのメモ
※現実世界の諸君へ。全部載せの手紙は一生書けん。──三行なら、今夜書ける。どっちが届くかって話よ。




