第67話「母の字」
現実の話から、始める。
その封筒は、金融の名前の群れの中で、一通だけ、違う顔をしてた。
手書きの、宛名。
俺の名前が、俺のよりずっと丁寧な字で、書いてあった。差出人の欄の字を見た瞬間、指が、封筒ごと固まった。
母の字だった。
◇
開けられなかった。
三日、開けられなかった。
封筒は机の真ん中に置いたままで、俺はその周りで生活をした。飯を食い、記録をつけ、日雇いに行き、帰ってきて、封筒と目が合い、逸らした。逸らすたびに、奈落の岬で見た景色が、頭をよぎった。着信拒否のボタンを押した、あの世界線の指が。
俺は、あの指じゃない。
四日目の朝、封を、切った。
便箋は、一枚だけだった。
——元気ですか。
——近所の桜が、今年も咲きました。あなたが小さい頃、木登りをして降りられなくなった木です。
——ごはんを食べていますか。
——返事は、要りません。
以上、だった。
要件がなかった。金の話も、仕事の話も、心配の押し売りも、「いつ帰ってくるの」も、何一つ、書いてなかった。近況と、桜と、飯の心配。返事は要りません。
俺は、その一枚を、三回読んだ。
三回目で、気づいた。この手紙の異常さに。
何年も音信不通の息子——金をせびって暴れて、着信も取らない息子に、書く手紙が、これか? 普通、書くだろう。心配してる、と。どうして連絡をくれないの、と。せめて生きてるかだけでも、と。書く権利が、この人には、山ほどある。
一つも、書いてなかった。
要求の圧が、ゼロだった。ドアの前に、そっと置かれた水みたいな手紙だった。飲むかどうかは、お前が決めろ、という。
……この距離の取り方に、俺は、覚えがあった。
どこでだったか。すぐには、出てこなかった。出てこないまま——なんでか、焚き火の爆ぜる音と、薪割りの、ぱか、という音と、西の風の匂いが、順番に、胸を通っていった。
……ああ。
そうか。
名前は、つけないでおいた。
◇
その夜の奈落で、俺は焚き火の前で、ずっと考えてた。
「——難しい顔しておるな」
「ガルド。……あんた、親は」
「ん? おるぞ。故郷にな。頑固な鍛冶屋だ。儂が騎士に憧れて家を飛び出すとき、親父は止めなかった。……一言だけ、言われたわ」
「なんて」
「『折れた剣は、いつでも打ち直してやる』——とな」
大男は、火を見ながら、少し笑った。
「儂はあの一言を、長いこと、突き放されたと思っておった。引き留めもせんのか、とな。……最近、分かってきたわ。あれはな、ノボ。引き留めん、という形の——一番でかい、待っとる、だったのよ」
折れた剣は、いつでも。
返事は、要りません。
同じ音が、した。
先輩冒険者Aのメモ
※現実世界の諸君へ。要求のない手紙ってのはな、書くのに一番技術が要るんだ。──貰ったことのある奴は、覚えとけ。あれは、書けるようになるまでに何年もかかった一枚だ。




