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第60話「笑って、別れる」


 朝の谷は、風が通ってた。


 いい風の日は、いい別れができるよ——出がけの、あの声を思い出した。教えない女は、たまに、予報だけ寄越すらしい。


 ヴェラは、壁の前にいた。


 「答え合わせ、だったわね」


 「ああ」


 「あなたの読みは、ほとんど正解。……一箇所だけ、訂正させて」


 彼女は、壁の——自分の書いた一枚に、指で触れた。


 「『あなたへの最後の一手』。そこが違う。あれはね、ノボ。……半分は、私のための一手だった」


 「————」


 「言ったでしょう。あなたの隣は、静かで楽だって。……楽すぎて、私、気づいたら、また預け始めてたの。判断を。次の一手を。『ノボがいるから大丈夫』って。——昔、全部を預けて消えかけた私が、また、同じ坂の上に立ってた」


 風が、壁の紙を、いっせいに揺らした。


 「だから逃げたのよ、半分は。あなたのためって顔をして。……西の最初のひと月は——まあ、地獄だったわ。詳細は、割愛。……それを一個ずつ、自分の足に戻していったの。三回しか検証してない手順を、三回って書いて貼れるくらいには、ね」


 「————立派な壁だ」


 「ええ。私の壁よ」


 彼女は、壁を見上げた。朝の光の中で、百枚の紙が、白く光ってた。


 「ねえ、ノボ。最後の、答え合わせ。————あなた、私に、戻ってきてほしい?」


 風の音だけが、しばらく、谷を流れた。


 俺は、自分の中を、ゆっくり、探した。誤魔化しなしで。半年前の俺には、この探し方すら、なかった。


 あった。


 戻ってきてほしい、は——あった。確かに。彼女のいる隊列は完璧で、彼女のいる焚き火は正しくて、昨日の夜のどうでもいい話は、ずっと続けばいいと思った。


 その隣に、別のものも、あった。


 昨日、若い剣士に「で、あなたはどう思った?」と聞いてた横顔。三回しか検証してないと書く勇気。彼女の壁。彼女の道。彼女の——彼女だけの、書。


 「……戻ってきてほしい、と思ってる俺は、いる」


 俺は、言った。


 「——でも、そいつに、あんたの壁を止める権利はない」


 ヴェラが、息を、呑んだ。


 「あんたは西で、あんたの書を書き始めた。誰の隣でもない場所で。……俺が半年かけて『引き留める言葉』を探したのは、本当だ。探して、見つけて——今、使わないと決めた。それが、俺の答えだ」


 ヴェラは、少しだけ、上を向いた。


 風が壁の紙をいっせいに鳴らして、通り過ぎて——彼女が顔を戻したとき、目元は、もう乾いてた。乾いてたが、瞬きが、一回だけ、長かった。


 それだけだった。たぶん、それが彼女の泣き方の、全部だった。


 そして彼女は——笑った。


 「……ほんっとうに」


 「ん?」


 「変わったわね、あなた」


 「ああ」


 俺も、笑った。今度は、口の形だけじゃなかった。頬の奥が、ちゃんと、熱かった。


 誰のせいで変わったのかは——言わなかった。


 言わなくても届く相手にしか、言う必要のないことだった。


 ◇


 別れは、あっさりしてた。


 定石の写しを交換して、西と東の連絡路の約束をして、ガルドが拳を合わせ、ヴァーノが軽口を三回成功させ、ミナがまた泣いて、笑って。


 最後に、ヴェラは俺の前に立って、手を、差し出した。


 「じゃあね、ノボ。……いい冒険を」


 「ああ。——いい冒険を」


 握った手は、剣士の手だった。硬くて、正確で、温かかった。


 それだけだった。それが、全部だった。


 ◇


 帰りの峠を越えるとき、俺は一度だけ、隊列を離れた。「先に行っててくれ」と言うと、三人は、何も聞かずに先へ行った。察しのいい仲間を持った。


 岩陰で、独りになって。


 俺は、泣いた。


 声は出さなかった。出す必要がなかった。悲しいのか、嬉しいのか、正しかったのか——一言で片付く感情じゃなかった。片付けなかった。ぐちゃぐちゃのまま、ぐちゃぐちゃとして、全部、流した。


 あとで知ったことを、ここに書いておく。


 同じ頃、西の谷の、壁の裏で——彼女も、泣いてたそうだ。それを偶然見た西の古株は、声をかけなかったらしい。「ありゃ、かけちゃいけない涙だ」と。


 別々の場所で、泣いた。


 それが、俺たちの、正解だった。


 岩陰から隊列に戻ると、三人は火を焚いて、飯を作って、待ってた。誰も、何も、聞かなかった。ガルドが黙って椀を差し出し、ミナがほんの少しだけ多く盛り、ヴァーノが「……しょっぱい顔してんな」とだけ言って、あとは天気の話をした。


 しょっぱいのは、飯じゃなかった。全員分かってて、全員、言わなかった。


 ◇


 その夜——こっちの夜の話だ。六畳の。


 俺は、スマホを開いた。


 一年以上、既読のまま止まってた画面を。


 『体、大事にしてね』


 その下の入力欄に、俺は、打った。消して、打って、消して——最後に残ったのは、五文字だった。


 『ありがとう』


 送信した。


 返事は、期待してない。既読がつくかも、確かめない。これは会話の再開じゃない。一年遅れの、受け取りましたの、判子だ。


 スマホを伏せて、俺は、百円のノートを開いた。


 ——今日の記録。


 ——受け取った。ぜんぶ。


ーーーーぼうけんのしょーーーー


 本日の記録

 ・ヴェラの壁、健在

 ・引き留める言葉、使わずに済んだ

 ・別々の場所で泣いた。それでいい


ーーーーーーーーーーーーーー



先輩冒険者Aのメモ

※現実世界の諸君へ。今日は長いから、一個だけな。


 ——別れってのは、失敗じゃねえ。完成って形の別れが、ちゃんとあるんだ。


 俺は、それを、こいつらに教わったよ。


(第3部前半 了)

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