第58話「彼女の壁」
西方未踏域は、噂より、拓けてた。
道が、あった。細いが、確かな道が。危険な浮石には印が刻まれ、水場には目印の布が結ばれ、崩落しやすい区画には迂回の矢印が彫られてる。誰かが先に通って、後から来る者のために、一つずつ置いていった跡だった。
「……この印の刻み方」ガルドが、浮石の印を撫でた。「見覚えがあるぞ。野営の張り方も、彼女の流儀だ」
道は、彼女の書き置きで、できてた。
俺たちは、彼女の半年を、遡るみたいに歩いた。ここで戦ったんだろう岩場。ここで夜を越したんだろう岩陰。ここで——たぶん、少し、迷ったんだろう分岐。矢印が、一度彫られて、削られて、彫り直されてた。
完璧じゃない道だった。
完璧じゃない道を、隠してない道だった。
◇
新拠点は、谷あいにあった。
天幕と小屋が二十ばかり。真ん中に、井戸と、焚き火の広場。そして、谷の岩壁に——それは、あった。
壁だった。
彼女の壁。
貼られた紙は、まだ百枚に満たない。大階段の壁の、何十分の一だ。だが、一枚一枚が、新しかった。白くて、インクが濃くて、生きてる壁だった。
俺は、近づいて、読んだ。
——西の斑蜘蛛は、巣の糸を切るな。振動で全個体が起きる。定石は、糸を「濡らす」。雨の後にだけ、通れ。
正確な字。正確な手順。ヴェラの字だ。半年ぶりに見る、あの、間合いの正確な字。
その一枚の、隅に。
小さく、こう書き足されてた。
——この手順は、まだ三回しか検証してない。四回目のあなた、結果を隣に書き足して。
「————」
隣の紙にも。その隣にも。彼女の定石の多くに、同じ種類の書き足しがあった。ここは自信がない。ここは誰かの検証待ち。この先は、私もまだ知らない。
完璧な定石じゃなかった。
未完成を、未完成のまま、人に開いてる壁だった。書き足しの筆跡は、彼女のものじゃないのが、もう何枚も混ざってた。四回目の誰かが、五回目の誰かが、彼女の隣に、書いてた。
……なあ、ヴェラ。
あんた、独りで西に来て——独りじゃない壁を、建てたのか。
「——あら」
声は、後ろから来た。
半年ぶりの、正確な間合いの、声だった。
「思ったより、早かったのね」
先輩冒険者Aのメモ
(明日、明後日は長くなる。……いい風が吹くといいな)




