幕間「束を運んだ男」
雨で、出立が一日、延びた夜だった。
客のいない食堂で、爺さんが、珍しく手を止めて、火の前に座ってた。膝の上に、古い、古いロープが一巻き。手入れの油を、染ませてた。
「……使うのか、それ」
「いいや」爺さんは、笑った。「使わん。手入れだけ、しとる。もう五十年になるかの」
五十年、使わないロープの、手入れ。
俺が黙って隣に座ると、爺さんは、聞いてもいないのに、ぽつりぽつりと、話し始めた。雨の夜ってのは、そういう夜だ。
「——昔な。友人がおった」
◇
頭のいい男での、と爺さんは言った。剣も立った。何より、字が几帳面での。……壁の定石にも、あやつの字は、ずいぶん残っとるはずよ。
儂は、あやつの相棒じゃった。
あやつが泉の研究を始めたとき、儂は止めた。数値の話をするあやつに、儂は感情の話しかできんかった。「嫌な予感がする」「やめてくれ」「頼む」。……あやつは言うたよ。感情で止める者と、数値で進む者、研究に要るのはどちらか、とな。
儂は、怒っての。
好きにしろ、と言うて——出てきてしもうた。
爺さんの手が、ロープの上で、止まった。
「……最後の様子は、あとから、束で読んだ。あやつは最後の力で、束を纏めて、儂に託す一文を書いておった。『ヴェス。お前が正しかった。この束を壁に貼ってくれ』とな。……儂はそれを、行商人づてに、何年も経ってから受け取った。あやつはもう、おらんかった」
儂は束を、大階段の壁に貼りに行った。
その帰り道での。決めたのよ。
「————儂は、去った側じゃ。あの日、去るしかなかったとは、今でも思う。じゃがな、去った側にはな、去った側の宿題が残るんじゃ。……あやつが守れなかった連中を、これから落ちてくる連中を、儂は、飯と寝床で守る。泉の手前の、この場所で。三十年、な」
白紙病で見送った四人の話も、その流れで聞いた。四人とも、この宿の常連じゃった。四人とも、最後の夜まで、儂の粥を食うた。儂にできたのは、うまい粥を出すことだけじゃった——と、爺さんは言った。それだけ、の言い方が、それだけじゃない重さをしてた。
「……なあ、爺さん。一つ聞いていいか。あんたの名前——」
「ん? 儂か? 儂はただの、宿の親父よ」
爺さんは、笑って、ロープを棚に戻した。それから、火を見たまま、独り言みたいに、一つだけ付け足した。
「……底の、そのまた下からな。戻ってきた者を、儂は、一人だけ知っとる。——どこの誰かは、聞くな」
聞かなかった。ただ、その夜の火は、いつもより長く、爆ぜてた気がした。
棚の奥に、もう一つ、見えた。古い書の束の——写しらしきものが、大事そうに、布に包まれて。
俺は、それ以上、聞かなかった。
聞かない作法は、この宿で、覚えた。
ただ、寝る前に、書に一行だけ書いた。
——感情で止める者は、間違ってなかった。五十年ぶんの粥が、証明してる。
先輩冒険者Aのメモ
※現実世界の諸君へ。止められなかった側の人間ってのは、世界に結構いる。──そいつらの三十年を、責める資格は誰にもねえ。粥を食ったら、うまいと言え。それだけでいい。




