第56話「ん。」
岬から戻って、俺たちは三日、何もしない日を作った。
俺が決めたんじゃない。ミナが決めた。「三日です。依頼も、鍛錬も、岬も、なしです」と、回復役の顔で宣告された。あの子はもう、袖を掴まない。腕を組んで、俺に静養を命じる側になった。
何もしない日、というのは、俺には難しい任務だった。
やることが決まってると、眠るのは早い。逆に言えば、やることのない一日を、俺はどう過ごしていいか、知らない。宿の周りをうろついて、装備の手入れを二周して、それでも日は高かった。
宿の裏手から、乾いた音がした。
薪を割る音だった。
回ってみると——セレナが、いた。
「……あんた、なんでここに」
「ん? 上にも宿はあるから」
最上層の、この宿にも、彼女は「ふらっと」来るらしい。斧を振り上げて、落とす。ぱか、と薪が割れる。振り上げて、落とす。ぱか。力んだ音が、一度もしない。
「……貸してみろ」
何を思ったか、俺は斧を借りた。定石は観測済みだ。振り上げの角度、落とす位置、力まない——完璧な理論で振り下ろした斧は、薪の三割の深さで、がっちりと、噛んだ。
抜けない。
薪ごと持ち上がる斧。無言で格闘する俺。ぷるぷる震える薪。
「ん。よくあるよ」
セレナは笑いもせず、俺から斧ごと薪を受け取って、とん、と軽く打ち直した。ぱか。
……理論は、あったんだ。理論は。
「見てないで、座れば?」
裏手の段を、顎で指された。俺は、座った。敗者の顔で。
薪の割れる音を、しばらく、聞いてた。妙なもので、あの音は、聞いてると頭の中が静かになる。岬の泡も、完全攻略者の夜も、百円のノートの一行も——消えはしないが、音の向こうに、少し、下がる。
「……なあ」
「ん?」
聞くつもりは、なかった。口が、勝手に動いた。
「あんた——沈んだこと、あるか」
斧が、止まらなかった。
ぱか。
「ん? あるよ?」
ぱか。
あまりに普通に返ってきたので、俺の方が、次の言葉を落とした。あるよ? って。天気の話みたいに。
「……どうやって、戻った」
今度は、斧が、一拍だけ止まった。
セレナは、少しだけ空を——天井の白い光を——見て、それから、笑った。
「……んー。忘れた」
「忘れた?」
「うん。……戻り方って、たぶん、覚えてるようなものじゃないよ。気づいたら、薪割ってた」
ぱか。
それきり、彼女は割り続けて、俺は聞き続けた。教えてもらった感じは、少しもしなかった。なのに、何かを受け取った気だけが、した。手ぶらなのに、両手が塞がってるみたいな、変な帰り道だった。
◇
夜、食堂の隅で、俺は書の整理をしてた。
片付けを終えたセレナが、カウンターの端で、一杯だけ注いで、飲んで、
「ん。」
と、言った。
俺は、その音を、書きかけのペンを止めて、聞いた。
今日もいるな、って、世界に出席を取る音。この宿に来てから、毎晩、聞いてる。毎晩聞いてるのに、毎晩、少しだけ、羨ましい。
俺の書には、まだ、あの一音に当たる行がない。
……いつか、書けるんだろうか。あんな短い行を。
先輩冒険者Aのメモ
※現実世界の諸君へ。回復ってのはな、劇的なやつじゃねえんだ。──気づいたら薪割ってた、くらいのもんだ。焦んな。




