第53話「沈んだ世界線」
見なければよかった、と後で思う道が、あった。
見ると決めたのは、俺だ。
岬の二日目。仲間は宿に帰した。「今日のは、独りで見る」と言ったら、三人とも、何かを察した顔で、引いた。Aだけが、突端に残った。番人だからだそうだ。
俺は、霧に向かって、二つ目の問いを置いた。
「——俺が、一番弱かった道を見せろ」
いや。違うな。言い直す。誤魔化すのは、やめだ。
「——酒の棚で、手が、止まらなかった道を」
霧が、動いた。
◇
見えたのは、奈落じゃなかった。
六畳の、部屋だった。
俺の部屋だ。天井の染みの形まで、同じ。ただ、あっちの部屋より——物が、少なかった。売れるものが、先に消えていったんだと、分かる減り方だった。残ってるのは、万年床と、空き缶の山と、カーテンの閉まった窓。
男が、寝てた。
昼だ。カーテンの隙間の光の角度で、分かる。男は、昼に寝て、夕方に起きて、コンビニに行って、袋の中身は、ほとんど缶で。
戻って、飲んで、画面を見て、飲んで、寝て。
景色の中の日付が、進む。同じ一日が、再生される。少しずつ、男の頬がこけて、少しずつ、部屋の物が減って、少しずつ、缶の本数だけが増えて。
電話が、鳴る場面があった。
画面に「母」と出てた。
男は、画面を、伏せた。俺と、同じ動きで。
違ったのは、その後だ。俺は翌週、留守電を一度だけ聞いた。あの男は——着信拒否の設定を、開いてた。指が、ボタンの上で、しばらく止まって——押した。
部屋が、また一段、静かになった。
◇
どれくらい見てたのか、分からない。
景色の中は、冬になってた。
男は、窓辺に立ってた。
珍しく、カーテンが、開いてた。夕方の、燃え尽きる寸前の西日が、部屋に入ってた。男は、缶を持ったまま、窓の外を、長いこと、見てた。
何を考えてるのかは、顔からは、分からなかった。俺の顔なのに、分からなかった。
ただ、あの目は、知ってた。
泉のほとりの連中の目だ。澄んでるのに、何も泳いでない——
「——もういい」
自分の声で、我に返った。
「もういい。閉じろ。閉じてくれ」
霧は、閉じなかった。岬は、問いに応える。俺の問いは、まだ、終わってなかったらしい。
景色は、男の部屋の、机の上に寄っていった。
空き缶の谷間に、一冊——ノートが、あった。
百円の、ノートだった。俺が買ったのと、同じやつが。
開かれたページは、ほとんど白紙で。
同じ種類の言葉だけが、書いてあった。
いつ書いたのか。飲む前か、飲んだ後か。それすら分からない、崩れた字で。ページのあちこちに、ぽつり、ぽつりと。
——また逃げた。
——俺がダメなだけ。
——俺は、駄目だ。
助けてくれ、とは——どこにも、書いてなかった。
……知ってる。あの底では、その五文字は、出てこないんだ。助けを求めるには、自分に助かる値打ちがあると、心のどこかで思えてないといけない。あの男に残ってたのは、値打ちの帳簿じゃなく——烙印の、押し場所だけだった。
たすけて、は。
言えた奴の、言葉なんだよ。
そこで、景色は、泡になった。
先輩冒険者Aのメモ
(なし)




