第52話「完全攻略者(後)」
道の続きを、見た。
最上層を独りで駆け抜けた男は、地上への最終区画に、俺たちより二年早く、到達してた。
そこで——止まってた。
◇
最初は、意味が分からなかった。
男は、最終区画の手前の野営地に、拠点を築いてた。完璧な拠点だ。水源、退路、備蓄、全部ある。そこから男は、毎日、鍛錬をして、周辺の魔獣のデータを更新して、書を磨いて——
登らなかった。
一日。十日。ひと月。景色の中の季節が、変わっていく。男は、地上への最後の登り口が見える位置に拠点を張ったまま、二年——登って、いなかった。
「な、なんでだ? あと少しだろ? なんで行かない?」
ヴァーノの問いに、答えられる者はいなかった。
答えは、景色の方が、見せてきた。
夜だ。
男の、夜。
完璧な焚き火の前に、男は独りで座ってる。飯を食う。うまいのかどうか、顔からは分からない。書を開く。今日の分を書く。俺は、その書のページを、霧越しに読んだ。
——鍛錬、完了。データ更新、完了。備蓄、良好。
完璧な記録だった。
完璧な記録の中に——固有名詞が、一つも、なかった。
人の名前が。誰かと食った飯が。誰かの一言が。笑った話が。腹の立った話が。二年分のページの、どこにも。魔獣の名前と、地名と、数値だけが、几帳面な字で、延々と。
俺は、自分の書を思った。ガルドの吠え声。ヴァーノの軽口。ミナの花。ヴェラの——。俺の書は、あの男のより薄くて、精度が低くて、でも、名前だらけだ。
「……ノボさん」
ミナが、小さい声で言った。
「あの人の書、白紙病の掠れが、一箇所もないです。すごく、健康な書です。……なのに、なんで」
なんで、あんなに——白く、見えるんでしょう。
◇
景色の中で、男が、立ち上がった。
夜の見回り——じゃ、なかった。
男は、拠点を出て、歩いていく。迷いのない足取りで。最終区画とは、逆の方へ。俺は、その道筋に、見覚えがあった。俺たちも、来る途中で見た。最上層にも、あるんだ。一つだけ。
青白く、光る泉が。
男は、泉の手前、きっかり十歩の位置で、止まった。
定石通りの、完璧な距離。
そこに、座った。
何をするでもない。飲みには、行かない。あの男の管理能力なら、行かないだろう。ただ、十歩の距離から、青白い光を、じっと見てる。
毎晩、通ってるらしかった。座る岩が、あの男の形に、擦れて滑らかになってた。
岩の脇に、小さな石が、几帳面に、積んであった。
数えた。数えてから、後悔した。
——七百と、いくつか。
一晩に一個なら、二年分だ。あの男は、泉を見に来た夜を、数えてたんだ。書には書けない種類の記録を、石で。数値の男の、数値にできなかった何かが、あそこに、積んであった。
泉のほとりの連中と、同じ跡だった。十歩、離れてるだけで。
「————」
喉の奥から、何かが、こみ上げた。
怒りじゃない。恐怖でもない。もっと、初めての——胸の真ん中の、ずっと、しんとしてた場所が、軋んで、熱を持つ、これは。
これは。
「……悲しい」
口から、出てた。
「あいつは、最強で、無傷で、完璧で——毎晩、泉を見に行くことしか、渇きの潰し方を知らない。二年、登らない。登った先に、受け取ってくれる奴が、一人もいないって、あいつの完璧な頭は、とっくに計算し終えてるからだ。……なあ。これの、どこが」
どこが、一番強くなった俺だ。
声が、割れた。
俺は、自分が霧に向かって怒鳴ってることに、遅れて気づいた。届かない。知ってる。干渉できない。知ってる。それでも、怒鳴ってた。
「登れよ!! そこまで行ったなら!! 誰もいなくても、朝はあるだろうが——!!」
霧の中の男が。
ふ、と。
こっちを、向いた——気がした。
聞こえるはずが、ない。だが男は、泉の光から目を離して、俺たちのいる方角の虚空を、数秒、見た。
それから、また泉に向き直って——景色は、泡になって、消えた。
◇
膝に手をついて、呼吸を整えながら——俺は、気づいてしまった。
あの男の一日を、思い出せ。起きる。鍛錬。データ更新。記録。完璧な手順。誰とも喋らない食事。毎晩の、泉までの十歩。
——最下層の、俺と、同じだ。
岩を上げて、水を汲んで、書いて、寝てた俺と。あの頃の俺は、あれを「他に何がある?」と言った。合理だと思ってた。正気だと思ってた。……岬越しに、初めて、自分を外から見た。
最下層で毎朝岩を上げ下げしてた男。討伐数零を勝ちと数え、誰の好物も知らず、笑い方の手順を引き出しに探した男。——狂ってる。少なくとも、普通じゃない。あの狂い方に、俺は命を救われてきた。それは事実だ。感謝もしてる。
でも、あの男の泉までの十歩は——俺の、十歩だ。
涙が、二度目に来た。今度のは、あの男のためだけじゃない。自分の狂気に、外から初めて対面した男の、震えだった。
「ノボさん、あの、大丈夫——」
「————決めた」
俺は、涙を拭かずに、言った。拭く手順を探すのを、やめたんだ。
「力の攻略は、もう足りてる。定石も、装備も、階級も。……足りてないのは、別のやつだ。喋ることと、感じることと——楽しむことの、定石だ。俺はそれを、取りに行く。今日から。あいつが取りに行けなかった分も、まとめてだ」
フルスイングの空振りが、今日一番観客を沸かせた日のことを、思い出してた。あの意味が、今、やっと分かった。
◇
岬の突端で、俺は、膝に手をついて、呼吸を整えてた。
ミナが泣いてた。ガルドが、俺の肩に、岩みたいな手を置いてた。
Aだけが、静かだった。
「……なあ、ノボ。今、お前、あいつを見て『悲しい』っつったな」
「……ああ」
「お前がその言葉を使うの、初めて聞いたわ」
Aは、フードの奥で、霧の海を見てた。
「——回路、繋がってきたじゃねえか」
先輩冒険者Aのメモ
※現実世界の諸君へ。最強で無傷の道ってのは、あるんだよ。──あるんだけどな。誰も減点してくれない人生ってのは、採点が終わってるんだ。




