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第5話「毒の泉」


 五日目。俺とガルドは、上へ続く通路の探索に出た。


 リグは留守番だ。脚はまだ本調子じゃない。「水場は守っておく」と妙に張り切っていた。


 通路は緩い登りで、歩きやすかった。歩きやすすぎるのが、逆に引っかかった。奈落の道は、楽な方が大体まずい。


 「──おい、ノボ。水の音だ」


 ガルドが足を止めた。


 確かに、した。さらさらと、細く澄んだ水音。この五日、奈落で一度も聞かなかった音だ。俺の水場の滲み水は、音を立てるほど流れない。


 角を曲がると、視界が開けた。


 泉だった。


 ——見た瞬間、喉より先に、膝が、泉の方を向いた。


 そういう水だった。理屈じゃない。身体の、もっと古い場所に直接届く誘い方をする水だった。ごくり、と、自分の喉が鳴るのが、聞こえた。


 広い岩室の中央に、青白く光る水面。天井の裂け目から淡い光が落ちて、水面がゆらゆらと天井に光の網を映している。綺麗だった。この灰色の世界で、そこだけ別の国みたいに。


 ——そして、綺麗だと思った半拍あとに、妙な感覚が来た。


 この光を、知ってる。青白くて、静かで、こっちを呼ぶ光。どこで見た? ……出てこない。ああ、まただ。この「まただ」も、何が「また」なのか、分からないままの「まただ」だ。


 そして、泉のほとりには——人がいた。


 五、六人。冒険者たちだ。装備を脇に置いて、水際に座り込んでいる。争うでもなく、話すでもなく、ただ、座っている。


 穏やかな顔で。


 近づくにつれ、声が、聞こえてきた。会話——じゃない。各々が、水面に向かって、途切れ途切れに、何かを漏らしてる。


 「……もういいんだ……もう、いい……」


 「かえらな、い……かえら……」


 「しずかだ……ここは……」


 誰も、隣の声を、聞いてなかった。全員が、泉とだけ、話してた。


 「おお……!」ガルドの声が明るくなった。「水場ではないか! しかも先客までおる。安全地帯だな! ちょうど喉も渇いて──」


 喉。


 言われて、気づいた。


 渇いてる。


 俺の喉が、渇いてる。おかしい。出がけに水はたっぷり飲んだ。汗もかいてない。なのに、この渇きは何だ。砂を詰められたみたいに、喉の奥が張り付いていく。一歩、泉に近づく。渇きが、増す。


 もう一歩。


 ——水のこと以外、考えられなくなっていく。


 「……ガルド。止まれ」


 「ぬ?」


 「それ以上、近づくな」


 俺は自分の袋から水筒を出して、自分の水を飲んだ。ぬるくて、苔臭い、いつもの滲み水。喉は、それでも渇いたままだった。俺の身体が、あの青白い水じゃなきゃ駄目だと言っている。


 飲んだこともないくせに。


 「ノボ、何を言っておる。ただの泉だぞ。現にあの者たちは──」


 「あの者たちは」俺はほとりの冒険者たちを見た。「何日ここに座ってると思う」


 ガルドが、改めて彼らを見た。


 よく見れば、分かる。装備に薄く積もった砂。伸びた髭。窪んだ頬。座り込んだ彼らの足元だけ、岩が擦れて滑らかになっている。長く、長く、そこに居る者の跡だった。


 「戻るぞ。迂回路を探す」


 「ま、待て! ならばあの者たちを連れて帰らねばなるまい! おおい、貴公ら──」


 「ガルド」


 止める前に、大男はほとりへ歩き出していた。そして一番手前の、水面に半分足を浸けた若い男の肩を掴んだ。


 「しっかりせい! ここは危険だ、儂らと共に──」


 「────触るな」


 若い男が、振り向いた。


 ゆっくりと。首だけで。


 「————ひ、」


 誰かの喉が、短く鳴った。ガルドだったか、俺だったか。


 穏やかだった顔が——別のものに、なっていた。いや、正確に書く。目も、口も、穏やかに笑ったままだった。笑ったままの顔の、その全部の奥が——真っ暗だった。


 「なんてことを、してくれるんだ。あんた」


 「な、に?」


 「やっと、静かになれたのに。やっと、何も痛くないのに。──返せよ。元に戻せよ。あんたに何が分かる!!」


 男はガルドの手を振り払い、水際に戻り、また座った。


 数秒で、顔は穏やかさを取り戻した。


 まるで最初から、何もなかったみたいに。


 ガルドは、伸ばした手をそのままに、立ち尽くしていた。あの、洞鬼の三撃を見切った男が、指一本動かせずにいた。


 「……ノボ。儂は、どうすれば」


 「戻るんだ」


 「だが」


 「引きずり出して勝てる相手じゃない。──あれと戦う定石を、俺は知らない」


 自分で言って、その言葉の座りの悪さに気づいた。知らない、じゃない。正確に言え。


 あれに勝った奴を、一人も知らない。


 ……誰を? 俺は、誰のことを思い出そうとした?


 背を向けて歩き出すのは、簡単じゃなかった。


 五人、いるんだ。あそこに。生きてる人間が、五人。足は迂回路へ向かいながら、頭のどこかが、ずっと言い訳を探してた。しょうがない。定石がない。今の俺たちじゃ無理だ。……全部、本当だ。本当なのに、口の中が、ずっと、苦かった。


 ——救えないものを救えないと判断するのも、冒険の内だ。


 と、書に書けたのは、三日も後だった。


 ◇


 迂回路は、泉の岩室を大きく巻く形で見つかった。狭くて、暗くて、歩きにくい道だった。


 不思議なもので、泉から離れるほど、喉の渇きは薄れていった。半刻も歩けば、消えた。俺の水筒のぬるい水が、ちゃんと喉を潤すようになった。


 渇きは、俺のものじゃなかった。


 あの泉が、渇きごと配っていたのだ。自分で作った渇きを、自分の水で癒させる。永遠に。


 「……ノボよ」


 ずっと黙っていたガルドが、口を開いた。


 「儂は今日まで、敵とは牙を剥くものだと思っておった」


 「ああ」


 「あれは、笑って迎えるのだな」


 それきり、大男はまた黙った。


 迂回路の出口の手前に、それはあった。


 古い石碑。人の背丈ほどの岩を荒く削って、四文字だけ、深く深く彫ってある。


 【近づくな】


 それだけだ。理由も、警告の詳細もない。彫った者の署名らしき跡は、長い年月で掠れて、もう読めなかった。


 ただ、彫りの深さだけが残っていた。一文字一文字、岩に爪を立てるみたいな、執念の深さが。


 「……よく、通り過ぎたな」


 声に振り向くと、Aが石碑の陰に立っていた。


 いつもの軽さが、なかった。フードの奥から、じっと俺を見ていた。


 「あんた、この石碑の主を知ってるのか」


 Aは、答えなかった。質問で返しもしなかった。ただ石碑の四文字を、古い友達の顔でも見るみたいに眺めて、それから先に歩いて行った。


 俺は最後にもう一度、石碑を見た。


 近づくな。


 ……なあ、あんた。俺はどうして、あの渇きを知ってた気がするんだろうな。


ーーーーぼうけんのしょーーーー


 本日の記録

 ・光る泉、発見。近づかない

 ・渇きは泉が配っている(重要)

 ・迂回路、確保

 ・石碑の主に、感謝


ーーーーーーーーーーーーーー



※現実世界の諸君へ。喉が渇く場所からは、離れろ。──渇きは、離れた分だけ薄くなる。これは本当だ。

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