第43話「黒獣、再び」
現実の話をする。
日雇いは、週に二、三件のペースになっていた。倉庫、引っ越し、看板持ち。身体は、動く日が増えた。
その日の現場は、倉庫の仕分けだった。昼の休憩で、常連の作業員たちの輪から、少し離れた場所で飯を食ってたら、聞こえてきた。
「——あの兄ちゃん、また来てんな」
「ああ、あの暗いの。歳いくつだよ。ずっと日雇いって、今まで何してたんだか」
「なんもしてねえんだろ。見りゃ分かる」
笑い声。
悪意ってほどのものでもない。暇つぶしの、雑な言葉だ。分かってる。分かってるのに——飯の味が、消えた。
なんもしてねえんだろ。見りゃ分かる。
午後の作業は、こなした。日当をもらって、帰った。部屋に着くまでは、保った。
ドアを閉めた瞬間、床に、座り込んだ。
胸の中で、昼の言葉が、勝手に再生を始めてた。なんもしてねえ。見りゃ分かる。再生のたびに、言葉は俺の声に変換されていった。なんもしてこなかった。見りゃ分かる。今までの全部、見りゃ——
……ああ。
来るな、これは。
◇
夜。奈落。
目が覚めた瞬間から、分かってた。
野営地の、焚き火の光の縁。
黒獣が、いた。
十歩の距離を保ってた奴が、今夜は、五歩の位置に、座ってた。
「——久しぶり、でもないか」
俺の声で、獣は言った。
「今日の、聞いたよ。なんもしてねえんだろ、だって。……ねえ。反論、できた?」
「…………」
「できないよねえ。だって、僕も同じ意見だもの。定石? 白紙病に勝った? ——あっちの世界の話でしょ、それ。こっちの……ううん、『そっち』のお前は、何を積んだ? 縁石で炭酸水? 二十七通の開封? ……ねえ、それ、人に言える戦果?」
一言ずつが、正確に、継ぎ目に入ってきた。こいつは俺だから、俺の鎧の継ぎ目を、全部知ってる。
以前の俺なら、ここで崩れてた。実際、四日、飯が食えなくなった。
今回は——書いた。
その場で、書を開いて、獣の言葉を、そのまま書き取った。
——「なんもしてねえんだろ」と言われた。刺さった。
——反論は、できなかった。
——でも、縁石の炭酸水を、俺は戦果だと思ってる。誰に言えなくても。
書き終えて、顔を上げた。
獣は、まだ五歩の位置にいた。薄れても、いなかった。今夜のこいつは、手強い。
「……なあ」
俺は、書を閉じて、獣に向き直った。
「なんで生きてるの、って、前に聞いたよな」
「聞いたね。答えられなかったね」
「今も、答えは出てない」
「でしょうね」
「——でも、分からないまま生きるのが、今の俺の定石だ」
獣が、初めて、黙った。
「答えが出てから生きるんじゃない。生きながら、探す。探しながら、書く。順番はそれでいいって、最近、思うようになった。……お前の質問は、期限なしで預かる。それが回答だ」
長い沈黙のあと、獣は、立ち上がった。
五歩が、七歩になった。八歩。焚き火の光の、縁の外へ。
去り際に、獣は、こっちを見ずに、言った。
「——ふうん。分からないまま生きる、ね」
一拍、置いて。
「……あの女も、そう言ってたのにね」
「————は?」
振り向いたときには、闇しか、なかった。
あの女。
誰だ。ヴェラか。ミナか。それとも——こいつは、俺の記憶を全部知ってる。霧の向こうの、俺が思い出せない場所のことまで。
あの女とは、誰のことだ。
先輩冒険者Aのメモ
※現実世界の諸君へ。他人の雑な一言が、夜に自分の声で再生されるだろ。──再生された分は、書いて外に出せ。頭ん中で再生させとくな。




