第42話「凪」
門の次の開放は、ひと月先。
俺たちは中継街に戻って、装備の整えと、書き溜めた定石の整理に、その月を使うことにした。宿は、いつもの爺さんの店だ。
その店に、見慣れない女がいた。
「あいよ、卓の三番、粥あがり」
厨房と客席を、盆を持って行き来してる。歳は、俺と同じくらいか。動きに——妙な言い方だが——音がなかった。忙しい食堂の中で、その女の周りだけ、時間の流れ方が半拍遅い。いや、違うな。周りが速いんじゃない。女が、急いでないんだ。急いでないのに、仕事は誰より捌けてる。
「姪っ子でな」と、爺さんが言った。「時々、手伝いに来よる」
「時々?」
「ふらっと来て、ふらっと帰る。……ま、来てくれると助かるわい。見ての通りじゃ」
女は俺たちの卓にも粥を運んできて、「はい、お待たせ」と置いて、行った。
それだけだった。
最下層から来た男、とか、白紙病に勝った、とか、この街で俺の顔に付いて回る前置きの、どれも、女の目には映ってなかった。客の一人。粥、一つ。以上。
……悪くなかった。ずいぶん久しぶりに、ただの客をやった気がした。
すれ違いざま、何かの匂いがした。
知ってる匂いだった。
どこで知ったのかが、出てこなかった。
◇
夜。
食堂の客が引けて、俺は隅の卓で、書の整理をしていた。ガルドたちはもう部屋だ。
厨房の片付けを終えた女が、カウンターの端に座った。
自分の杯に、棚の酒を、一杯だけ注いで。
一口、飲んで。
「ん。」
と、言った。
誰に言うでもない。報告でも、感想でもない。強いて言えば——点呼に、聞こえた。今日もいるな、って、何かに向かって、出席を取るみたいな一音。
女は、それきり静かに飲んで、杯を洗って、「おやすみ」と爺さんに言って、奥へ消えた。
杯は、一杯だけだった。
注ぎ足しは、なかった。名残の目線も、棚の酒に、戻らなかった。
俺は、自分が凝視してたことに、遅れて気づいた。
……なんだ、今のは。
俺は酒を知ってる。こっちの世界の酒も、あっちの——いや、この文脈はやめよう。とにかく、俺の知ってる酒は、ああいう飲まれ方をしない。俺の知ってる酒は、渇きとセットで来る。一杯は二杯を呼び、二杯は言い訳を呼び、言い訳は朝の後悔を呼ぶ。泉の水と、根が同じだ。
あの女の一杯には、渇きが、なかった。
◇
翌日から、俺は観測を始めた。職業病だ。許せ。
女の名は、セレナというらしい。観測結果は、以下の通り。
朝、誰より早く起きて、薪を割る。割り方に、力みがない。
水を汲む。汲み方に、工夫がない。工夫がないのに、こぼれない。
客と話す。深い話は、しない。天気と、粥の加減と、それくらい。
昼、店の裏の段に座って、日を浴びてる。何もしてない。何もしてない時間を、退屈そうにしてない。
夜、一杯だけ飲んで、「ん。」と言って、寝る。
……以上だ。
以上、なんだ。何もない。異常が、どこにもない。俺の観測は、異常を拾う網だ。網に、何もかからない。かからないことが——こんなに引っかかったのは、初めてだった。
五日目、俺はとうとう、聞いた。
「……あんた、なんで、そんな」
「ん?」
盆を持ったまま、セレナは振り向いた。
そんな、の続きが、俺の口の中で渋滞した。そんなに静かなんだ。そんなに足りてるんだ。そんなに——普通に、幸せそうなんだ。
「……いや。粥、うまいなと思って」
「そう? よかった」
セレナは、笑った。
意味ありげでも、含みありげでもない。ただの、笑顔だった。
「普通だよ?」
普通。
その一言が、その夜、妙に、寝床まで付いてきた。
俺は最下層から、定石を積んで、白紙を越えて、ここまで登ってきた。強くなる方法なら、百個書ける。
普通に幸せそうにする方法は——一行も、書けなかった。
先輩冒険者Aのメモ
※現実世界の諸君へ。今日のメモは休みだ。……いや、なんとなくな。静かな夜ってのは、あるんだよ。




