第40話「忘れられた回復所」
役所というのは、奈落より入りにくい。
これは検証済みの事実として書く。奈落の門は「汝、何を残したか」と問うだけだが、役所の自動ドアは「お前、来る資格あるのか」と問うてくる気がする。実際は何も問うてない。問うてるのは、俺の頭の中の何かだ。
ドアの前で、三回、通り過ぎた。
四回目で、入った。理由は大したことじゃない。三回目のとき、中の掲示板に「相談無料」の文字が見えたからだ。無料。討伐報酬ゼロでも、被害もゼロ。なら偵察だ。偵察なら、俺はできる。
番号札を取って、待って、呼ばれた。
窓口の担当は、疲れた顔の、俺より少し年上の男だった。俺は用意してきた紙——二十七通ぶんの数字の一覧——を出して、言った。
「……これの、立て直しの相談は、ここでいいですか」
担当は一覧を見て、少しだけ目を見開いて、それから言った。
「——よく、まとめてこられましたね。ここまで整理してある方、なかなかいません」
それから男は、道筋を並べ始めた。支払いの組み直しの制度。生活の支え直しの窓口。専門の相談先。俺は全部、書き取った。書き取りながら、途中で気づいて、手が少し震えた。
これ、定石の壁だ。
先に詰んだ誰かたちのために、先に考えた誰かたちが作って、置いていった手順の集積。それが、この街の、こんな入りやすい——入りにくい——場所に、最初から、あった。
誰も、教えてくれなかっただけで。
いや。違うな。
俺が、ドアの前を三回、通り過ぎてただけで。
◇
その夜の奈落で、俺たちは亀裂の先に、それを見つけた。
古代の回復所。
石造りの円形の広間。中央に、涸れた泉——毒のやつじゃない、ただの水場の跡。壁には薬草棚の残骸と、施術台。そして壁一面に、手順の彫り込み。回復術の、定石の数々。
「……なんで、こんな施設が、使われずに」
ミナが、壁の彫り込みを指でなぞって、呟いた。
「場所が悪い。昨日まで、ここへの道は塞がってた」
「開けば、ただの一晩の距離ですのに」
ただの、一晩の距離。
俺は、涸れた泉の栓を調べた。詰まってるだけだ。ガルドが岩をどけ、ヴァーノが図面を読み、ミナが術式の彫りを起こして——半日で、回復所は、水音を取り戻した。
水音が戻った瞬間、ガルドが意味もなく雄叫びを上げ、ミナが施術台に寝転がって「回復される側、初めてです……!」とはしゃぎ、ヴァーノが「これ入場料取れるぞ」と算盤を弾き始めた。遺跡の再稼働に、遠足の空気が混ざった。……悪くない。真面目な仕事に遠足が混ざるのは、うちの隊の仕様だ。
◇
現実の帰り道、スマホが鳴った。
通知の枠じゃなかった。着信だった。
画面の名前は——「母」。
足が、止まった。
親指が、画面の上で、浮いたまま、動かなかった。出たら、何を言えばいい。何年ぶりだ。あの日から——いや、その計算を始めた時点で、もう遅かった。
着信は、切れた。
折り返しは、しなかった。できなかった、が正しい。
俺は画面を消して、歩き出して、途中で一回だけ振り返った。誰もいなかった。当たり前だ。
……ここにも、まだ、開いてない道があるらしい。
今日は、無理だ。今日は役所のドアを一枚開けた。一日一枚。それが定石だ。そう自分に言い聞かせる声が、言い訳の味がすることにも、気づいてたけど。
先輩冒険者Aのメモ
※現実世界の諸君へ。「相談窓口」ってのはな、先人が血で書いた定石の壁だ。──無料で読める壁を、素通りするな。




